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黄昏も黎明も、断片的に訪れては去って行った。
一日は短く、心のなかの日めくりカレンダーは手をかけるより先にひらりと舞い落ちてしまう。目を閉じて開けば、もう溶けた雪のように跡形もなくなっている。
今日が何曜日なのかすらわからなかった。時間もだ。朝なのか昼間なのか夕方なのかも、宵の闇なのか真夜中のそれか、あるいは日の出が近づいているのかも。
そんな状態が何日か続いた。
広大無辺にして往来自在、建造物のひとつとて見えぬ純白の大地、宿世と来世が混じり合う異空間で『リチェルカーレ・リモージュ』は、人化せし超越的存在ネームレス・ワンと対峙した。管理三神とメフィストに見守られた状況、薔薇十字教団えりすぐりの浄化師たちと肩を並べ、まさしく世界の存亡を賭した決戦に臨んだのだ。
戦いは勝利に終わった。ネームレス・ワンは劇的に、それでも穏やかかつ満足そうに灰燼に帰した。
「赤ん坊からやり直すから、しばらくは待ちなよ。それまでは、滅びちゃダメだよ――」
という言葉を残して。
大きく負傷したわけではない。しかし精根尽き果て疲労のあまり、翌日からリチェルカーレは発熱して床に伏せった。数日間起きることすらままならなかった。
病でもなくこれほど寝込んだのははじめてのことだ。
ああ、でも。
瞼を上げるだけで音が立つはずはないのだけれど、目覚めると同時にパチッと、スイッチが入る音がしたようにリチェルカーレは感じた。身を起こして大きく伸びをする。魂が出てしまうのではないかというほど長く息を吐いた。
憑きものが落ちたよう、というのはこんな状態を言うのだろうか。今朝は生まれ変わったみたいに爽快だ。いささかも疲れは残っておらず、体中に力がみなぎってくる。いますぐ最終決戦をもう一回やれと言われたって、えいやと飛び出せるような気がした。
……それは無理かな。
苦笑してしまう。ぐうう、と抗議の声をお腹が上げたのだ。いろいろ詰め込んであげたい。朝ご飯とか。
夢うつつながらできるだけ毎日下着も寝間着も替え体も拭いてきたつもりだが、まずはシャワーを浴びたかった。最初はちょっと冷たいくらいの水温がいい。それからうんと熱くしよう。
ベッドから滑り降りると青く長い髪が、当然のようにくるくるっと跳ねてカールした。
身支度を終え久々の制服に袖を通して、リチェルカーレは食堂で栄養補給を開始した。これまで何気なく口にしてきたクロワッサンが最高にサクサクしててバターもきいていて、目玉焼きの黄身なんてふんわりトロトロで、サラダもシャキシャキで甘味すら感じたのは、よっぽど飢えていたからだろうか。
しかしその幸福もすぐに薄らいでいった。
「そう、見かけてないの……」
てっきりいつものお気に入りの席にいて、食後のコーヒーを片手に『遅いぞ』とうっすら笑いかけてくれるかと思っていた『シリウス・セイアッド』の姿がなかったのだ。食べているうちに来るかと期待したがそれも果たせず、周囲の友人に問いかけてみても、一様にしばらく見ていないという回答があっただけだった。
嫌な予感がした。
すっかりパサパサになり味もしなくなったパンの残りを大急ぎで片付け、リチェルカーレは席を立った。
寮母さんにお願いして、彼の部屋へ入れてもらおう。
シリウスの部屋の前に立ち、ドアを軽くノックする。
「おはよう、シリウス。中にいるの?」
リチェルカーレは期待した。『今起きた』とか、いっそ『いない』とか、そういう回答が戻ってくることを。
しかし、しばらくごそごそと音を立てたのちようやく、
「リチェ……か……」
ざらついた声とともに扉を開けたシリウスの顔を見て、
「顔を見ないと聞いたから 心配し……!?」
リチェルカーレは絶句したのである。
シリウスは一変していた。血の気の失せた顔は、もともと色白だが今は紙のように白く、うつろな目は濁り焦点が合っていない。垂れた前髪は汗で額に張り付き、頬にも暗い影がさしている。
「もう、起きられるようになったのか……よかった……」
自分が大変な状況になっているというのに、リチェルカーレを見て最初にシリウスが口にしたのはこの言葉だった。
立っているのもやっとだったらしい。ゆらりとシリウスはよろめいた。
その拍子にドアが大きく内側に開き、彼の全身をあらわにする。
体には包帯が巻かれているがいずれも不器用に巻き付けただけで、傷が完全には覆いきれていない。絆創膏の場所もずれている。軟膏を塗った跡にしたってむらがあり、分厚く塗布したところと傷に届いていないところがちぐはぐだった。
自分で処置したのは明らかだ。それも、かなりいい加減に。
一瞬悲鳴をあげそうになったがこらえ、リチェルカーレは身をひるがえした。
「お医者さんに……!」
と言いかけた彼女の手首をシリウスはすばやくつかんでいた。
「――言わないでくれ」
そうして重傷者とは思えない力で、リチェルカーレを部屋に引っ張り込む。
けれどこれが限界だ。背中から床に倒れ込みうめいた。
頼む、と言うかわりにシリウスは、すがるような眼差しをリチェルカーレに向けた。
あきらかに良くない、こんなこと。
一刻も早く医者に診せるべき、それは十二分にわかっている。
でも。
リチェルカーレの眉が八の字に垂れた。
あんな顔されちゃ……。
「もう」
小さくつぶやくと、リチェルカーレは後ろ手にドアを閉めた。
部屋のなかはうっすらと消毒液の匂いがする。
リチェルカーレに手を借り、シリウスは這うようにしてベッドに戻った。
リチェルカーレは周囲を見回す。シリウスらしいというか、こんな状態でもきれいに整頓されていた。
いやむしろ――決戦の前に整理して、そのまま?
どうやらそのようだ。
「勝利して教団に帰還してから……何人かの声を振り切るようにして部屋へ戻った」
ぽつりぽつりとシリウスは語った。
「医務室には、行かなかったんだ」
「入れない。あの白い建物を見るだけで足がすくむ……」
リチェルカーレにはシリウスは素直だ。てらいもなく言って目を閉じた。
「寝ていたら治ると思い、部屋の扉を閉めたところで意識が途切れた」
自分で雑に応急手当したままなのはそのせいだろう。だが、教団の医務室で適切な治療を受けていたら、決してこんなことにはならなかったはずだ。
医学の心得があるのでリチェルカーレが彼の傷を調べた。さすが快復力はある。幸いにしてほとんどの傷はふさがっていた。汚れを拭き取り消毒してきぱきと処置を施すと、またシリウスの目が開いた。
「わたしと違って大けがだったんだから、お医者さんがだめでも、クリスさんとかショーンさんとか頼ればよかったのに」
言いながらリチェルカーレはシリウスを仰向けにし、火のように熱くなった額に冷たいタオルを乗せた。
シリウスの表情がゆるんだ。
けれどかたくなな態度は変わらない。
「……迷惑、だろう。あいつらだって酷い怪我をして……」
リチェルカーレは彼を遮り、力を込めて言った。
「迷惑なんて、思わないわ。絶対よ」
朦朧としていたシリウスの視線に生気が戻りつつあった。
なかば力なく閉ざされてはいるが、瞳はこれ以上ないほどに翡翠の色だ。はっとするほど美しい。
「来てくれてありがとう……助かった」
唇をなめてシリウスはつづけた。
「……そして、ごめん」
申しわけない、その気持ちに偽りはなかった。実際、今朝リチェルカーレが来てくれなかったらどうなっていたかわからない。
しかしそれと同時に、もしかしたらそれ以上に、シリウスは安らぎを感じている。
そばに誰かがいてくれる。それだけで、どうしてこんなにほっとするんだろう。
「タオル変えるね」
シリウスがうなずくと布がのけられ、水音が聞こえてまたのった。
「……心地いい」
「本当? 良かった」
タオルが、ではなく、リチェの細い指先がと言いたかったがそれは控えた。
母鳥に包まれる卵になった気持ちで、やがてシリウスは深く静かな眠りに落ちた。
リチェルカーレはシリウスの寝息を確認すると、汚れた包帯を片付けふたたび枕元に戻り、黙ってベッドに両肘をついて彼の寝顔を見つめた。
何時間かがあっという間にすぎた。
リチェルカーレは彼の元にとどまっている。まめに濡れタオルを交換した。
離れられなかった。飽きることもなかった。
こうしてすやすやと眠っているシリアスの貌(かお)は、よちよち歩きの子どもみたいに見えてくる。
その頃の彼はどんな子だったのだろう。
やっぱり強がりで、転んでも泣いたりしなかったんだろうか。
困ったことがあっても、全部一人で解決しようとしたんだろうか。今回のことみたいに。
故郷の村が使徒やベリアルに襲われるまでは家族とともに平穏な生活をしていたというから、もしかしたらそれまでは、今とは180度逆で甘えん坊だったかもしれない。
それはないかな。
でもきっと、寝顔は今と同じだったとリチェルカーレは思うのだ。
シリウス、あなたは強いけれど……自分の不調にはとても鈍感。
だからわたしが気づかなくちゃいけなかったのに――。
リチェルカーレは下唇を噛む。
小声で告げた。
「来るのが遅くなって……ごめんね……」
シリウスがこんなことになっているなどとは夢にも思わず、ただ寝たり起きたりしていた自分が不甲斐ない。
いつの間にかリチェルカーレの目には涙がたまっていた。
ぽつりと、一粒が零れ頬を伝う。
はっとなってリチェルカーレは目をぬぐった。いつの間に起きたのだろう、熱を孕んだ目がこちらを見ていた。やはり透き通った翡翠の色で。
「……お前は、何も悪くない」
シリウスの舌は乾ききっていた。だから掠れ声になってしまった。届いただろうか。
濡れた右手を袖で拭いてリチェルカーレは言った。
「ぐ、具合は?」
シリウスはうっすらと微笑んでうなずいた。
「良く、なってきた。俺は、平気……だから泣くな」
いつもの強がりかもしれない。けれど、眠る前より血の気がさしてきたのは確かなようだ。
「こうやって、そばにいてくれたら……それだけでいい」
そうだ。リチェは悪くない。
――悪いのは、俺だ。
このとき白い稲妻のように、シリウスの脳裏にある言葉が連想された。
『お前こそが、災厄を招く』
過去に何度も聞かされた言葉、つきまとう呪詛だ。
シーツから出した右手、その指先が震えた。
「……リチェ、いいんだろうか。お前の横にいても、本当に」
胸が苦しくなる。
俺は災禍を喚ぶ者だ、ガスのようにまとりわつく黒い思念に悩まされる。
けれど彼に宿った闇を、たんぽぽの綿毛を吹くようにしてリチェルカーレが払った。
「何言ってるの」
シリウスの右手に自分の手を重ねる。
「……シリウスがそばにいてくれなくちゃ、わたし泣くわ」
「でもさっき、泣いてた……」
「泣いてないよ。うん、泣いてないから」
赤くなった頬を誤魔化すように、リチェルカーレは笑ってみせた。
「だって、シリウスがそばにいるんだから」
シリウスの心から恐れが消えたわけではない。今はまだ。
だけど。
彼女が望んでくれるなら、そばにいたい。
いさせてほしい、どうか――。
シリウスはリチェルカーレと結んだままの右手を引き寄せ、左腕も伸ばした。
リチェルカーレはさからわなかった。
そして重なり合ったまま、少しかさつくシリウスの唇にキスを与えた。
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「申請は受理した。世界を巡ると良い」
「ありがとう、室長」
にっこりと笑顔で、『リコリス・ラディアータ』はヨセフに返した。
するとヨセフは、微笑むように目を細め、リコリスの隣に居る『トール・フォルクス』に視線を向ける。
「各支部にも連絡をしている。必要があれば頼ると良い」
「ありがとうございます、室長。助かります」
「気にしなくともいい。2人とも、皆と同じくこれまで頑張ってくれた。それに少しでも報いることが出来るのなら、喜ばしいことだ」
ヨセフの言葉に、トールとリコリスの表情は、今まで以上にやわらいだ。
いま3人が居るのは室長室だ。
ネームレス・ワンとの戦いが終わり、一息ついたあと、リコリスとトールの2人は世界を巡り旅をするため、休暇申請を行ったのだ。
これをヨセフは快諾。
和やかに言葉を交わした後、ヨセフは引き出しから封筒に収められた書類を取り出しトールに差し出す。
「室長、これは?」
「以前頼まれていたことの調査書だ。君のご両親について書かれている」
「……」
トールは息をつくような間を空けて、静かに書類を手に取る。
「見ても良いですか?」
「もちろんだ。そのために用意した」
トールは封を空け中身を確認する。
(十字軍に参加していたのか……)
ヨハネの使徒が跋扈する希望の塔の調査と制圧。
だが成功することなく、ほぼ全滅したと聞いている。つまり――
(遺体の回収は叶わず、か……)
どこか覚悟していたのだろう。
トールは報告書の中身を確認しても、感情を表に出さずにすんでいた。
けれどだからといって何も想わないわけではなく、読み進める毎に様々な感情が去来する。そこに――
「リコ?」
気付けば、リコリスが寄り添うように身体を近づけ、トールを見詰めていた。
リコリスはトールを見詰めたまま、言った。
「私も、見ても良い?」
同じ想いを共有しようとするかのように、リコリスはトールにねだる。
「ああ、もちろんだ」
トールは柔らかな笑みを浮かべ応えると、2人で書類を見ていく。
「トールのお母さん、悪魔祓いだったのね。トールは、お母さん似なのかしら?」
「どうだろう? 父さんは魔性憑きだったみたいだ。俺達と、お揃いだな」
トールの言葉にリコリスは、くすりと笑みを浮かべ。トールもリコリスを見詰め小さく笑みを浮かべる。
『アクセラレータ』レイ・フォルクス。
『ホーク・アイ』リディア・フォルクス。
トールの父と母は、ふたつ名で呼ばれるほどに腕利きだったらしい。
そうして書類を最後まで読み終えると、ヨセフが言った。
「ご両親の墓参りを望むなら、道のりを説明しよう」
これに頷くと、ヨセフは墓地への道のりを詳しく説明してくれる。
それは人伝に聞いたのではなく、自分で何度も訪れていなければ無理なほど詳細な説明だった。
(……そういえば、室長の妹さんも――)
話に聞いた通りなら、ヨセフの妹も十字軍に参加し亡くなっている筈だ。
「花を供えるなら、道の途中にある花屋に寄ると良い。いつも用意してくれている」
ヨセフの申し出に礼を言うと、2人は室長室を後にして墓地へと向かった。
墓地へと向かい、供える花束を購入すると、2人は名が刻まれた墓石の前に立っていた。
「来るのが遅くなって、ごめん」
トールは墓石に花を供え、亡き両親を想う。
(生きていたら、なんて言ったのかな……)
郷愁にも似た寂しさが胸に浮かぶ。すると――
「大丈夫よ」
リコリスがトールの気持ちを引き上げてくれるように、明るい声で言った。
「ご両親はきっと、会いに来てくれて嬉しいって思うはずよ。だって――」
信じるようにリコリスは言った。
「ほんの少ししか一緒にいられなくても、きっとご両親はトールを大切に思っていたはずだもの」
「そうだな……そうだといいな」
リコリスの言葉に励まされ、トールは自分を元気づけるように笑みを浮かべる。
そんなトールを見詰めながら、リコリスは言葉を重ねた。
「寂しかった?」
「それは……仕方ないさ。昔は浄化師は家族と暮らせない決まりがあったみたいだし。それに――」
思い出し笑いをするように笑みを浮かべ、トールは続ける。
「寂しいばかりじゃなかったよ。親戚のおじいさんは俺をちゃんと育ててくれたし、旅暮らしも楽しかった。そういう場所にいられるように、両親は気に掛けてくれたんだと思う」
「そうね。そうに決まってるわ」
リコリスは、トールを自信付けるように言った。
「そうじゃなきゃ、こんないい男に育ってないわ」
「……そうかな」
「ええ、もちろんそうよ」
少し照れたように視線を逸らすトールに、くすくすとリコリスは楽しげに笑みを浮かべた。
優しく穏やかな空気が広流れる。
気持ちが軽くなったトールは、リコリスに言葉を返す。
「家族と言えば、ララのとこは――」
言いかけた所で異変に気付く。
「何だろう? 魂……? みたいなものが……」
それは揺らめく輝きをした何かだった。
浄化師として指令をこなす中で、それに似たものを何度か目にしている。
「幽霊、かしら? もしそうなら、送り届けてあげないと」
空から降りてきた魂は、ふわふわと近付くと、かつて見た事のある姿へと転じた。
「あなた、まさか雲雀姫!?」
「ええ、そうです。リコリス・ラディアータさん。神魔大戦以来ですね」
静かに応える雲雀姫にトールが驚いたように声を上げる。
「ええっ!? 雲雀姫って、あの……?」
「はい。その節は、お世話をお掛けしました」
深々と頭を下げる雲雀姫に、リコリスは訝しげに聞き返す。
「え、何? これって……」
すると雲雀姫は説明した。
「今の私はべリアルではありません。主よりべリアルとしての生を終えたあと、新たなる命として生まれ変わらせていただいたのです」
「……そういえばベリアルの魂が転生して宝貝になるって聞いたけど」
「はい。今はまだ形を定めていませんが、貴女が私の主となってくれるなら、貴女の望む形になります」
「え……待って、どういうこと?」
状況がつかめず聞き返すと、雲雀姫は説明した。
「貴女の母親の望みなのです」
「ママに言われて私の所へ?」
驚くリコリスに、雲雀姫は続ける。
「はい。私はベリアルとして滅びたあと、貴女の母親に会いに行ったのです」
「……なんで、そんなことを?」
「恨みがあれば聞くつもりでした。その必要があると思ったのです」
リコリスの疑問に雲雀姫は応えた。
「私は貴女の母親に会いに行き、けれどそこで、あの人が私に返した言葉は、恨み言よりも貴女のことを想ってのものでした」
「……ママが?」
「はい」
雲雀姫はリコリスに、母親の言葉を告げる。
「罪の意識を感じているなら、生きているリコリスの力になって欲しい。そう願ったのです」
「……そうなんだ」
リコリスは想いを飲み込むように目を伏せる。
そんな彼女に、雲雀姫は伝言を続けた。
「貴女の母親が望んだのは、私が貴女の力になること。そしてもうひとつは、貴女への言葉を伝えることです」
視線を上げたリコリスに雲雀姫は伝言を口にした。
「生きて欲しい。貴女が幸せであるよう、ずっと願ってる。そしていつかまた出逢える時まで、ずっとずっと貴女を待ち続けるから」
「……」
母からの伝言を聞き、リコリスは空を見上げる。
それは天国に居る母を想うかのようだった。
(良かった……リコの家族は天界で待ってくれてるんだな)
リコリスと雲雀姫の話を聞いていたトールは安堵する。
そして静かに2人を見守った。
(契約するかどうかは、リコ次第だ)
リコリスの意思を尊重し黙して待っていると、空を見上げていたリコリスは雲雀姫へと視線を戻し応えた。
「そう……分かったわ、契約しましょう」
静かに自分の思いを口にする。
「あなたを許したわけじゃないけど、今のあなたはママからのプレゼントだから」
そして手を差し出しながら続ける。
「転生したのだから、新しい名前が必要ね」
視線を合わせ、リコリスは新たな名を贈る。
「今日からあなたは告天子、私の剣よ」
それは雲雀の別名。
耳好き鳴き声を上げながら、雲まで昇るかのように飛び上がる所から付けられた名。
「告天子。それが、今の私の名なのですね」
大切な贈り物を受け取るように、彼女は自身を告天子と規定した。
その途端、彼女は変わる。
雲雀姫の姿から、黒髪の10代半ばほどの少女の姿に。
実体としての人型を取ると、次いで軽い破裂音と白煙と共に武器へと変じる。
それは薄らと青みの差した銀色の短剣。僅かに反りがあり、突き刺すよりも切り裂くのに向く形状をしていた。
すっとリコリスの手元に短剣と化した告天子が納まると、リコリスは黒炎に包まれ疑似べリアル化。すると――
『貴女の望む力を思い浮かべて下さい。それを私が形にします』
手にした告天子から念話が伝わってくる。
リコリスは天を見上げると、告天子を空に向かって振るう。
途端、まさしく雲雀が鳴くような音が響き、周囲に広がると効果を発した。
周囲一帯の生き物が、一斉にその場から遠ざかっていく。
『危機を知らせ逃がすための力。この力で良かったのですか? 望むなら、もっと他にも――』
「いいえ、これで良いの」
笑顔でリコリスは応えた。
「戦いよりも、生き残ることは大切よ。私はみんなを助けたいもの。それに――」
茶目っ気のある笑みを浮かべ言った。
「どうせ戦うなら、思いっきり戦いたいもの。そのためには誰にも気兼ねなく戦える状況にするのが必要でしょう」
くすりと、リコリスの応えに告天子が笑う気配がする。
『分かりました。貴女のその考えは、私にとっても好ましい。そして、もし更なる力を望むなら、私に願って下さい』
いざという時の切り札を伝える。
『第2段階の変化は、今よりも更に強くならなければ、反動が大き過ぎるので使えません。ですが第2段階の特殊能力だけなら、発動してみせます。その時は、どのような能力を望むか、強く想って下さい』
「分かったわ。その時は、頼りにさせて貰うわね」
契約の終った2人に、トールが呼び掛ける。
「そろそろ行こうか」
「ええ。まずは、どこにするの?」
リコリスの問い掛けにトールは応える。
「そうだな……まずはノルウェンディ」
「いいわね。ご両親が暮らしていた場所なんでしょう?」
「ああ。そのあとは、ニホン。今までに任務で行った所を全部回って、最後に皆とまた会おう」
「ふふ、ずいぶん長い旅になりそうね」
笑顔を浮かべ、リコリスとトールは旅の第一歩を歩き始める。
「それじゃ……行きましょうか!」
リコリスは告天子を空高く掲げ、空を見上げる。
天界にも見えるように。
リコリスの想いに応えるように、空高く浮かぶ雲は、旅路を見送るように流れていった。
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最後の戦いから、少しの時が過ぎた。
全ての争いが、消えた訳じゃない。
ベリアルも。ヨハネの使徒も。まだ残党が残っていて、散発的に騒ぎを起こす。
けれど、それはほとんどスケール1・2と言った知能を持たない低スケールベリアルの仕業。本当の脅威となる筈の高スケール達は、ほぼ鎮静化している。
知恵を持ち、心を持つに至った彼ら。先の大戦での敗北と、その中で見定めた人の可能性。そして、それに対する『同胞だった者達の結論』。コッペリアが散り際に放った最期の『最操』による共有で全てを知って、そして全てを受け入れた。
争う意味も、意思もすでになく。報告を受けた浄化師達が討伐に赴けば、抵抗もなく受け入れる場合も多かった。
彼らは、誰よりも理解していた。もう、『ベリアル』の役目は終わったのだと。
悔恨も。憎悪もなく。確かな、充足と共に。
使徒の場合は、もっと単純。主である創造神も。統率機構であるデウスマギアも失ったソレは、文字通りのガラクタ。
当てもなく彷徨って、定められた行動原理の残滓をなぞって人を襲う。
けれど、そこにはかつての統率力も目的とする答えもなく。
ただ空回るだけの機兵は、浄化師でもない民兵の手で容易く壊された。
争いは消えない。
憎しみも、悲しみも、きっとそのまま。
けれど。
それでも。
世界は、ほんの少し。
けれど、確かに。
ほんの一握りの、誰かさんの心。
幾ばくかを、置き去りにして。
◆
「はあ……」
自室の窓から外を眺め、『ラニ・シェルロワ』は細い溜息をついた。妙に黄昏たその様子から、彼女の売りである快活さがなりを潜めているのは明白だった。
『……駄目ね』
戸の隙間から覗く、『シィラ』が言う。
「……腑抜けてるなぁ」
隣りで覗く、『ケイト』も呟く。
「……黄昏てるな」
その上から覗く、『ペトル』もポソリ。
「魂が、萎びておる……」
で、その隣りで覗く『エフェメラ』。
「深刻だな……」
最上段で覗く『グリージョ』も、思案顔。
重なり合ってうら若き婦女子の個室を覗く四人。行く人々が物凄く不審げな視線を投げかけるが、取り合えず咎める声はない。彼らが部屋の主の友人と知れているのもあるが、普通に関わり合うのがイヤだ。
そんな周囲の目など気にもかけず、四人は扉前にしゃがみ込んでヒソヒソと話し合う。
『創造神との決着がついてから、ずっとあの調子……』
「残党討伐の時なんかは、ちゃんと戦うんだけどね……」
「常時になると、どうもいけないな……」
困る若者(?)三人。エフェメラが、思案する。
「ラニはここまで、町を滅ぼした使徒に対する憎しみを糧に生きてきた。それの消失は、そのまま存在目的の消失だ。生きる目的がない。危惧すべき事ではあったが……」
『……いつまで囚われてるのよ……。ホント、馬鹿なんだから……』
苦悩を浮かべて呟くシィラに優しい視線を送り、グリージョも唸る。
「燃え尽き症候群の様なモノか……。それなりの休暇をとらせるべきだろうが、承知はしないだろうな。まだ、ベリアルや使徒が消えた訳ではない。このままでは、戦闘時に足元をすくわれかねないが……」
「どうしたもんかなぁ……」
「困ったなぁ……」
「……何やってんだ? お前ら……」
呆れた声に顔を上げると、馬鹿を見る様な目で見下ろす『ラス・シェルレイ』。
しばし見つめ、『やっぱコイツしかいないな』と頷き合う。
「ラス、これはお前の使命だ」
「全力全霊で、解決しなさい」
「な、何だよ? 急に」
ズズイと迫って来たケイトとペトラに若干怯えながら、視線を送るのは常識人組の方。気づいたグリージョが、黙って扉の方を示す。
「ああ……」
すぐに察したラスの様に、シィラは溜息をつく。
『……やっぱり、分かってたのね?』
「当たり前だろ……」
そう言って、手に持っていた紙を見せる。
「指令か?」
「ああ。まあ、要請したのはオレなんだけど」
エフェメラの問いに、ポリポリ頬を掻きながら答えるラス。覗き込んだ皆が、ホウと声を上げる。
「気の利いた事するじゃない」
「こんな洒落た気回しが出来たんだなぁ。お前」
好き勝手言うケイトとペトラを無視して、ノックする。『どうぞ~』と気の抜けた返事を聞いて、中に。
その後ろ姿を、五人は黙って見送った。
◆
「何だ~。ラスじゃん~。どうしたの~」
「……相変わらずだな。陸上げされた烏賊みたいだぞ」
「……喧嘩売ってんなら、買うわよ~?」
「ほら」
差し出された包みを見て、フッと笑う。
「食べ物だと? そんなモノであたしが釣られ……」
「スイートドリームの特製・夢魔の誘惑プリンだ」
「くまー!!!!」
食い意地があるのが、まあ救い。
◆
「うまー!」
プリンを頬張って、顔を蕩かせるラニ。
「よく手に入ったわね~。相変わらず、大人気なのに」
「最近、夢魔の誘惑(サキュバス・ペイン)の生産量が増えて、供給が安定したからな」
「ハニーが例の蜂ベリアルの能力を解析して、シャドウ・ガルデンに技術提供したんだっけ? やるわね~、あの娘も」
「ま、『アイツら』のお陰もあるけどな」
そう。その功績の陰には、謎のアルバイト三人組の尽力あり。ハニーと養蜂業者さん達の嘆願により、教団絶賛黙認中。
「この事知ったら、『アイツ』も喜んだでしょうにね~」
思い出すのは、気に食わないけど甘味の趣味だけは合った『アイツ』。
創造神がかけていた保険で、消えたベリアル達は別な存在として転生出来るらしい。アイツも、そうなのだろうか。もしそうなら、一度くらい……。
ボンヤリと考えていると、ラスが一枚の紙を差し出した。
「……へ? なになに、指令? へぇ、ニホンに? あっちも、平和なんじゃない?」
「まぁいいや! ひめちゃんにちゃんとお礼言ってなかったからね!
「気分転換も兼ねて、行ってみないか? あんまり、見て回ってなかったしな」
ラスの誘いに、ちょっとだけ考えて。頷く。
「まぁいいや! 『ひめちゃん』に、ちゃんとお礼言ってなかったからね!」
浮かべるのは、絆を結んだ二ホンの八百万。『桜花の麗精・珠結良之桜夜姫』の顔。正直、会いたい。
「じゃ、行くか」
「いざ、二ホンに!」
外で聞いていたシィラ達が走る。
『急ぐわよ!』
「完璧なプランを!」
「言われるまでも!」
「……やれやれ、若いモンは忙しないな……」
呆れ声で見送るエフェメラの隣り。グリージョは気にかけていた『もう一人』の奮起する姿に、嬉しげに微笑んだ。
◆
決めてしまえば、行動は早い。次の日にはもう、二人の姿は二ホンのキョウトにあった。
「ニホンって和服なんだっけ? わぁ、可愛い!」
雅で華やかなキョウトの町中。見つけた店に飾られた着物に目を奪われるラニ。年相応。華の様な、笑顔。
店の女将に誂えて貰った品に、早速着替える。
「どうどう? 似合う?」
詰め寄ってくる彼女に苦笑するラス。でも、心から。
「うん。似合ってるよ」
思いもしなかったくらい、ストレートな賛辞にキョトンとして。
「……と、当然よねー! あたし、美少女だもの!」
はにかむ顔を見つめながら、手を伸ばす。
「髪、下ろすか? ほら、かんざし買ってやるから」
「う、うん……」
照れるラニ。穏やかに薙ぐ心。ずっと、夢見ていた時間。
りんご飴にたい焼き。みたらし団子にわらび餅。
道中、屋台で色々買ったり食べたり。
いつしか、日が西に傾く。
黄昏時。
逢魔が時。
辿り着いたのは、町外れの社。
約束の、場所。
日が沈み。
灯が灯る。
フワリ。フワリと。
季節外れの、花弁と共に。
いつしか目の前に、大きな牛車。引く牛の姿もないのに、カラカラと輪を繰るソレ。『朧車(おぼろぐるま)』と言う妖怪。かの姫の、使い。
『ラニ・シェルロワ様とラス・シェルレイ様とお見受けいたす。我が主が、殿にてお待ちなれば』
案内するのは、蓑を被った一本足の童子。『呼子(よぶこ)』と言う、山気の化生。クルクルクルと、独りでに簾が上がる。招くのは、仄かに甘いお香の香り。
『どうぞ、御乗り下されませ』
促され、ラニとラスは中へと乗り込む。
舞い上がる感覚。
カラカラカラと、星が巡る。
◆
『よう参ったな。ラニ公、ラス坊』
夜空を駆けたはどれ程か。着いた旨を受け、簾を上げるとソコはもう大広間。宴の準備が整ったその中心で、珠結良之桜夜姫は穏やかな。そして嬉しそうな笑顔を浮かべて、待っていた。
「ひめちゃん、やっほー! 元気?」
朧車から飛び降りて駆け寄ったラニを、桜夜姫が抱き止める。
「当たり前じゃろ? 妾は樹霊ぞ? そうそう病みはせぬよ。むしろ、心配なのは人の身なる其方らの方じゃ」
そう言って、ラニの顔を見上げる。実は、姫の方が背が低かったり。
「あたし? あたしはまぁ……ほら、元気!」
『そうかのぅ?』
小首傾げる、黒真珠の瞳。見透かされそうな気がして、慌てて話題を変える。
「お礼、そう言えばちゃんと言ってなかったからさ!」
言って、小さな手を握る。
「ありがとう。あんた達の助けもあったから、あたし達は生きる事が出来る」
『誠、阿呆じゃなぁ』
下げられたラニの頭を優しく撫ぜる。
『アレを成したは、紛う事なく其方らの力じゃ。其方らの想いがなければ、妾や御母上はともかくも、高位の偏屈共は動かんかった。誇れ。全ては、其方ら人が掴みし道じゃ』
クシャクシャと、朱い髪を手櫛が削る。愛しい我が子を愛でる様に。
くすぐったそうに笑うラニ。
じゃれあう二人を、ラスは遠間から見守っていた。
優しく安らぐ。
満たされた想いで。
それから催された宴は、楽しかった。
数多の樂妖が曲を奏で。
蝶や小鳥の妖魅が舞を舞い。
書や絵画の化生が小話を繰る。
次々と運ばれてくる、滋味溢れる料理に甘美な菓子。話に聞いていた神露(しんろ)は違わず美味く、ラニは幾つも杯を空ける。
まあ、酒みたいに毒にはならないと聞いてはいるけど。
些か、心配。
「こっちも、何事もなかった様で何よりだ……」
酔い潰れて眠ってしまったラニを横に眺めなら、ラスは桜夜姫と語る。
「……ラニが楽しそうで良かった。ありがとう」
『……些か、病んどる様じゃな?』
姫の指摘に、苦笑する。元より、誤魔化せる相手ではないけれど。
「いざ平和になったら、落ち着かなかったみたいでな。気晴らしになったなら……」
『ラス坊』
「ん?」
『ラニ公の事は、大事か?』
急な問いに、キョトンとする。
「……ラニの事? 大事に決まってる」
『何故じゃ?』
「どうしてって……何故だろう?」
言われて、戸惑う。まるで、夢から覚める様に。
「出逢った時から……まるでそっくりで……」
そう。そっくりだった。血が繋がっている訳でもないのに。
「一緒にいたら……落ち着くし……」
落ち着くのだ。まるで、もう一人の自分といる様で。
『のう、ラス坊……』
顔を、上げる。見つめる、姫の眼差し。優しく、揺れる。
『其方は、其方じゃ。そして、ラニ公も、ラニ公以外の何物でもない……』
「……?」
『放すなよ。見失うなよ。其方らの大事なモノは、何が在ろうと変わりはせん……』
「何を、言って……?」
『知らずに済むのなら、其れがいい……』
花弁の様な唇が、フッと呼を吹く。華の香が揺蕩い、眠気が襲う。
『寒うない様に、してやれよ』
眠りに落ちた二人を寝屋に運ぶ妖達にそう言って、姫はクイと神露を煽る。
『……誠、人の業とは深いなぁ……』
溜息と共に零す声。
酷く酷く。
悲しく愛しい。
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ほのかに生まれた想いは、気付けば意識せずにはいられないほど強く、大きくなっていた。
「マー、どうかしたのか?」
「……え?」
ぼんやりとした声で『タオ・リンファ』は『ステラ・ノーチェイン』の呼び掛けに応えた。
リンファはステラに顔を向けるが、どこか思い詰めたような表情をしている。
「やっぱり変だ。最近、ぼーっとしてることが多いぞ、マー」
心配したステラが声を掛けてくる。
彼女に見詰められ、リンファは息を飲むように一瞬黙ると、すぐに安心させるような笑みを浮かべ応える。
「……そうですね、少しほうけていたのかもしれません。これではいけませんね、もっとしっかりしないと」
自分に言い聞かせるようにリンファは言うと笑顔のまま続ける。
「気持ちを切り替えるためにも、少し汗を流すとしましょう。これから修練場に行こうと思いますが、ステラはどうしますか?」
「ん~、今日は止めとく。行きたい所があるんだ」
「行きたい所?」
「鍛冶を見に行くんだ。マリエルとマリーが、見に来てもいいって言ってたからな」
目を輝かせながらステラは言った。
(そういえば、新しい武器を作るから興味のある人は見学に来て欲しい、と言ってましたね)
詳しくは知らないが、少し前からメフィストが慌ただしく動いて、それにマリエルとマリーが協力しているらしい。
(黒炎魔喰器を超える武器らしいですが、ステラは気になっているんでしょうか?)
今も目を輝かせているステラを見ていると、新しい玩具を楽しみにしている子供のようにしか見えない。
リンファは苦笑すると、ステラを笑顔で送り出す。
「分かりました。晩御飯までには帰って来て下さいね」
「おう! 分かってるぞ、マー!」
返事をするとすぐに、ステラは工房に向かって走っていく。
ステラを見送ると、リンファは修練場に向かって歩き始めた。
可能な限り余計なことを考えないよう無心に向かおうとする。
けれど無理だった。
ずきずきと疼くように、目を逸らしている想いは消えてくれない。
むしろ無視しようとすればするほど、意識せずにはいられなかった。
(なんで、こんな……)
以前は、こんなことはなかったのに。一体いつから、こうなってしまったのだろう?
いや、自問するまでもなく分かっている。
明確に意識してしまったのは、覇天の雷姫・アディティに連れられて希望の塔に向かった時のこと。
正確には、アディティが室長室に現れた時から意識してしまっていた。
大音響と共に堕ちた雷光一閃に、近くにいたリンファもステラと共に室長室に向かい、そこでヨセフにしなだれかかるアディティの姿を見て、一気に頭に血が昇ったのだ。
そこからは考えるよりも先に身体が動いて。
ヨセフからアディティを引き離そうとして雷帯で叩き伏せられてしまったけれど。
そのあと事情を知って、自分を誤魔化すように、努めて冷静でいようとしたのだけれど、ついつい希望の塔に向かう道中で、ヨセフのことが気になり彼をどうするつもりなのか聞いてしまったのが運のつき。
――ようよう言ったでありんすなぁ。
まるでそう言いたげな視線を向けて、アディティは耳元に寄せた口を扇子で隠し。
色っぽく、わざとらしく、リンファにしか聞こえないように囁いたのだ。
『ぬしは、ヨセフはんのことがだぁーい好きでありんすなぁ』
囁かれた瞬間、血が逆流するように熱くなり、必死で否定した。
でもダメだった。
否定しようとすればするほど強く、想いは消えてくれない。
(こんなことを考えるのは不埒だ、破廉恥だ)
想いは不意に、気付けば浮かんでくる。
それを掻き消すように繰り返し呟く。
「私と室長は上司と部下……上司と部下……上司と部下……」
誰も居ない修練場に訪れ、自分に言い聞かせるように呟き続ける。
それでも消えてくれない想いを振り払うように、自分を律しようとした。
蒼滅呪刀・化蛇を口寄せ魔方陣で召喚し、上着を脱いで軽装になると鍛練に励んでいく。
「神との戦いは終わりを迎えた……とはいえ、まだやらなければならないことは多い」
型を取りながら化蛇を振るい、あえて言葉に出して自分が成すべき事を意識する。
「体を鈍らせないためにも、こうしたトレーニングの習慣は大切です」
休むことなく化蛇を振るい続けた。
これまで幾度となく繰り返した鍛錬は、すでにリンファの一部になっている。
鍛錬を重ねるごとに、刃を振るうことだけに集中できる気がした。
何十と休まず繰り返し、上着のタンクトップが肌に張り付くほどに汗が出て来る。
(このまま……体を動かせば、余計なことも考えずに済みます)
きっとその筈だと自分に言い聞かせ、リンファは化蛇を振るい続けた。
百を超え、二百を重ね。
身体を動かし続けながら、リンファは思う。
(ステラは今頃、魔喰器を見てもらっているところでしょうか?)
彼女のことを気に掛けはするれど、心配することは無い。
そう出来るようになったことが嬉しくて、リンファの表情は優しくなる。
(こうして互いに離れていても、以前ほど不安を感じなくなりました。これも幾多の戦いを共に歩んでこれたからこそ)
鍛錬を続けながら思う。
(室長にも感謝しなければ……――)
気付けば、またヨセフのことを想っていた。
(――……室長……)
「いけない」
(油断するとまた考えてしまう)
浮かんできた想いを振り払うように、今まで以上に力強く鍛錬を重ねる。そんな時だった――
「こんなところにいたのか」
聞こえてきた声に鼓動が跳ねる。
視線を向けずとも、それはヨセフだということが分かった。
「ひょわぁっ!?」
驚いて普段なら出すわけもない声を上げてしまう。
しかも慌てたせいで、大きくバランスを崩した。
幸い化蛇は、主であるリンファを護るように口寄せ魔方陣で自動的に消えてくれたので、それで怪我をすることは無い。
けれど盛大にこけてしまった。
「あいたっ!」
「大丈夫か!」
心配するような声が背中から聞こえてくる。
ヨセフが気遣って走り寄って来てくれるのが分かり、どこか嬉しい気持ちになったが、同時に自分の今の姿を思い出し、大いに慌てた。
「あ、あ……あ……」
上擦った声を上げながら自分の身体を見詰める。
ぺったりと汗をかいた今、タンクトップは肌に張り付いて、ボディラインをクッキリと露わにさせている。
(こんな姿、見せられません)
大急ぎで、脱いで置いていた上着を引っ掴むと、胸元を隠すようにして、ヨセフとは逆向きに走り出す。
(すぐ、どこかへ逃げましょう)
そのままぴゅーっと走り去ってしまった。
「……どういうことだ……」
逃げられたヨセフは呆然とする。
先ほど声を掛けたのは、ここ最近避けられている理由を聞くためだ。
もっともこの場で聞く気はなくて、アディティの助言で予約することにした店に招いて、そこで落ち着いた状態で聞くつもりだった。
なのにこの有り様である。
「……どういうことだ……」
呆然としたまま、ヨセフは修練場から室長室に戻る。その途中――
「ヨセフさん、どうしたの?」
カレナに声を掛けられた。
「何だか今まで見たことない表情してるけど。何かあったの?」
これにヨセフは、同性の彼女なら何か分かるかもしれないと事情を話す。
するとカレナは、目をぱちぱちさせた後、呆れたように言った。
「ヨセフさん、それ本気で言ってるの?」
「……どういう意味だ?」
聞き返すヨセフに、カレナが何か言おうとした所で、通りかかったトゥーナも話に加わり、女性2人掛かりで言われた。
「ヨセフさん、にぶちん」
「正直どうかと思うます」
「……どういうことだ……」
わけが分からないヨセフが理由を聞くが、2人とも呆れたような声で返した。
「それをボク達が言うわけにはいかないよ」
「頑張ってください、室長」
(……どういうことだ……)
結局、何も分からないヨセフだった。
だからヨセフは意を決して、リンファを呼び出すことにした
「失礼します! タオ・リンファ、招集に参じました!」
指令のために呼ばれたと思ったリンファは、仕事モードに切り替えられたお蔭で、真面目で真剣な様子で部屋に訪れる。
(しかし何故、ステラと一緒ではなく私だけなのか?)
疑問を抱きながらヨセフの言葉を待っていると、彼は言葉を迷うような間を空けて言った。
「すまんな、わざわざ来て貰って。今日は仕事ではなく、俺の個人的な用件で呼んだんだ」
「……ぇ」
思ってもいなかったヨセフの言葉に、浄化師としてのリンファは消え失せ、彼女自身の表情を見せる。
そんな彼女に、ヨセフは意を決したように言った。
「タオ・リンファ。お前は、俺を避けていないか? 俺は何かしてしまったのだろうか?」
リンファを気遣う眼差しを向けながら、静かにヨセフは言った。
「気付かず俺が何かしてしまっていたというのなら、改善しよう。そうではなく、なにか気になることがあって、その対処に困っているというのなら、力になろう」
「……」
リンファのことを思いやり、ヨセフは尋ねる。
それが、リンファの心の中で塞き止めていた想いを溢れさせてしまった。
「……それ、は……違います、全て、私が悪いんです。ヨセフ室長は何も悪くありません」
(ああ、これで……――)
想いを吐き出しながら、リンファは覚悟する。
(もう、こうなっては一緒に居れない)
そう思っても、想いを止めることは出来なかった。
「自分でも気づいていなかったんです。初めは、尊敬だと思っていました。けれどアディティ様に言われて、自覚してしまった……」
震える声で、ヨセフを見詰めリンファは言った。
「私は貴方が……どうしようもなく好きなんです!」
「……」
リンファの告白を、ヨセフは視線を合わせ無言で聞き続ける。
そんな彼に、リンファは覚悟と共に言った。
「上官にこんな感情を抱くなど、不純です。あってはなりません。でも……でも、消せなくて……」
泣き笑いのような表情で、別れを告げるように言った。
「処罰は、受け入れます。異動も覚悟の上です」
リンファの想いの全てを聞いたヨセフは――
「……すまん、少し待ってくれ」
顔を強張らせ緊張した声で応えた。
「……ぇ」
泣きそうな顔で自分を見つめるリンファにすぐに返せず、ヨセフはアディティの助言の数々を思い出していた。
(あいつ、全部分かってたな)
けらけら笑っているのが目に浮かぶ。
目の前に居れば本気で文句を言ってやる所だが、今はそんなことよりも大事で大切なことがある。
「タオ・リンファ、聞いてくれ」
「……はい」
刑の宣告を待つようなリンファに、ヨセフは緊張した声で言った。
「どこかに行かれては困る。傍に居てくれ」
「……ぇ」
思ってもいなかった応えに混乱しているリンファに、ヨセフは言った。
「君は有能だ。それに今まで働いていくれた恩に報いてもいない。それに……先程の言葉に、今すぐ応えを返せない。だから、傍に居てくれないか、タオ・リンファ」
「……」
リンファはヨセフを見詰める。
普段よりも不器用で、そのくせ、リンファに応えようと懸命になっている彼の表情に、何かがすとんと胸に落ちる。
(ああ、やっぱり、私はこの人が好きなんだ)
だから、素直な気持ちを言葉に出来た。
「はい……傍に居ます……ヨセフ室長」
リンファはヨセフと見詰め合い、応えを返すことが出来たのだった。
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(どういうことだ?)
ヨセフは『タオ・リンファ』を前にして困惑していた。
「そ、それでは私は帰ります!」
今までの落ち着いた様子から一転して、ヨセフから視線を逸らし室長室から出て行こうとする。
「待て。タオ・リンファ」
「は、はひっ!」
ヨセフに呼び止められ明らかに挙動不審な様子で応えを返す。
「な、なんですか……?」
やはり視線を合わせず、どこかもじもじしている。
(どういうことだ?)
合点がいかない。
とある指令を頼もうと、リンファと『ステラ・ノーチェイン』を室長室に呼び概要を説明していたのだが、その時は問題なかった。
真剣な面持ちで話を詰めていき、対応策を相談している時もそれは変わらない。
けれど説明が終わり、急な指令を頼んだことに労いの言葉を掛けようとした途端、リンファの視線は宙をさまよい、いつのまにやら視線を逸らし部屋から出て行こうとしたのだ。
「忙しい所を呼んですまなかった」
「え……」
リンファの様子に、ヨセフは思い当たる節を口にする。
「忙しかったのだろう? いや、何も言わなくても良い」
何やらパクパクと口を動かそうとするリンファを止め、ヨセフは続ける。
「指令内容を聞いた途端、急いで出て行こうとするのだ。それだけ他の用事があるのだろうが、それでも今回指令を受けてくれ礼を言う」
「ふぇ……」
思わず上ずった声を上げてしまうリンファに、ヨセフは言葉を重ねる。
「いつも助かっている。タオ・リンファ、お前も、ステラ・ノーチェインもそうだが、力を貸してくれることに感謝しかない。だから少しでも、お前達に報いたい。何かあれば、いつでも言ってくれ」
リンファとステラのことを想っていることが伝わってくるような熱の篭もった言葉だった。それを聞いたリンファは慌てて部屋を出て行く。
「だ、大丈夫です! 失礼します!」
「マー! 待て! オレも帰るぞ!」
当然のようにリンファの後を追うステラ。
あとにはヨセフが1人。
「……どういうことだ?」
思わず心の中だけでなく声に出して呟きながら、ヨセフは書類仕事を再開した。
そして部屋を走って出て行ったリンファに、追い付いたステラは顔を覗き込む。
「マー、どうしたんだ? 顔が赤いぞ」
「そ、そんなことはないです!」
慌てて返すリンファの顔は、ほのかに赤く染まっている。
「こ、これは……急に走ったから赤くなっただけなんです!」
全力で言い訳するリンファ。
ステラは首を傾げ不思議そうに言った。
「マー、最近変だ。あいつに会うといつもそうだぞ」
「べ、別にそんなことないです! 前から何も変わりません!」
「そうなのか?」
よく分からん、とでも言いたげに、さらに深く首を傾げるステラ。
一方リンファは、ぺちぺちと軽く自分の頬を叩き、いまだ形にならない胸の奥から湧き上がる想いを誤魔化そうとしていた。
(ヨセフ室長と会うと、すぐにその場から立ち去りたくなります)
何故なのか?
それは自分の気持ちと向き合えば、すぐに答えは出るような気はする。
だからといって向き合えるかというと、そう簡単な物でもない。
(理由は……いえ、そんなはずはないんです、そんなはずは……)
自分に言い聞かせるように否定する。
けれど自分の行動を振り返れば、否応なしに理解できるような気はしていた。
(仕事という名目があれば、そこまで苦しい感じはしません。それが今の私にはとても楽で、正直助かっています。でも――)
ふいに何でもない日常の先でヨセフと出会ってしまえば、意識せずにはいられないのだ。
(日常に彼が現れると、何故か心を乱されてしまっています……)
胸が苦しい。
それは自分の想いと向き合えないからなのか? それとも想いの先を考えることが怖いのか?
それすら分からないほど、今のリンファの心の中は乱れていた。
「……」
小さく、ため息ひとつ。
気持ちを引き戻そうとしていると――
「マー、それより早く行くぞ!」
ステラが元気に声をかけてくれる。
「早く指令を終わらせて、ご飯食べに行くぞ!」
色気よりも食い気と言わんばかりに、明るく元気に呼びかけてくれた。
思わず苦笑する。
(ステラはまだ、これがどういうことなのか分かっていないのでしょう)
だから今までと変わらぬ様子で接してくれる。
それが今のリンファにとって助けになっていた。
「そうですね。行きましょう」
リンファはステラに応え、共に指令に向かう。
変わらぬ日常を、これからも続けていこうとするかのように。
けれど抱いた想いは熾火のように、消えずに熱を持ち続ける。
だからこそ思ってしまう。
(実のところ、私にさえよく分かっていません……初めて抱いたこの感情が、何なのか……)
消すことのできない想いを胸に抱きつつ、それを振り払うように思う。
(とりあえず、落ち着くまで彼とはなるべく会わないようにしましょう。今はそれが必要なんです。だけど――)
想いは熱を帯びていく。
(ああ、会いたいとも、思ってしまう……)
想いを抱えるリンファは、それからもヨセフに会う度に距離を取ろうとしてしまう。
それが幾度か続いたあと、ヨセフは思っていた。
(最近、彼女に避けられている気がする)
彼女とはもちろん、リンファのことだ。
ヨセフを見ては距離を置こうとしたり、廊下で会いそうなら遠回りし、話しかければどうも歯切れが悪かったりはぐらかしたり。
何かがおかしいが、何がおかしいのかヨセフには見当もつかない。
(人に言えない悩みでもあるのか、デイムズの部下だったことで気でも遣っているのか、それともまさか、自分を嫌っているのか)
思考を目まぐるしく巡らせる。
それは幾つもの可能性を組み合わせ、最適と思える答えを導き出す。
まさしく『円転滑脱の権謀術策』のふたつ名にふさわしい思考速度だったが、どうしても辿り着けない。
そもそも論理で乙女の純情に辿り着こうとしていること自体が、随分と思い違いをしていたのだけれど。
とはいえ答えが出ずに教団本部の廊下を歩いていると、リンファとばったりヨセフは会った。
「……あっ! ヨセフ室長……お、お疲れ様です! お先に失礼しますっ」
これまでと同じように逃げ出そうとするリンファを、ヨセフは呼び止める。
「待て、タオ・リンファ」
「な、なんですか……」
ずかずかと一気に距離を詰めてきたヨセフに、リンファが声をすぼめていると、すっとリンファの髪に手を延ばし言った。
「埃が付いていた。指令で付いたのだろう」
そう言うと肩に付いた埃も手で払いのけてあげる。
「うん、これで良い」
笑顔で言うと、顔を俯かせているリンファが気になって顔を近づける。
「ふぇ……」
「大丈夫か? 顔をが赤いぞ。普段からお前には無理を言っているからな、疲れが出たのかもしれん。休みは、ちゃんと取っているか? 取れていないなら言ってくれ。お前の苦労に報いるためにも、それぐらいはする。だから自分を大事にしないとダメだぞ」
心配してヨセフが声を掛け続けていると、俯いていたリンファは体をぷるぷる振るわせて、さらに顔を真っ赤にすると――
「な、なんでもないですうぅぅ……――」
全力ダッシュで走り去っていった。
「……いかんな」
リンファの様子にヨセフは思う。
(理由は分からんし、思いつけもせんが、俺のせいでタオ・リンファに余計な心痛を負わせてしまっているようだ)
「どうにかせねば」
そう思い到ったヨセフは、とりあえず山のように積み重なった書類を徹夜で全処理。
魔術で強制的に短時間深層睡眠を取り回復すると、自分では思いつかないので他人を頼ることにした。
『そりゃあれだロ! 加齢臭ダ!』
「お前俺とひとつしか歳は変わらんだろう」
まず最初にパートナーであるトーマスに訊いたことをヨセフは即座に反省した。
「無駄な時間だった」
『なんだトー! そんな心ないこと言われタラ、オレ様の心はブロークンだゾ! 慰謝料に研究予算を十年分寄こセ!』
「何か新しい発明でも思いついたのか? 必要なら工面する。概要を後で挙げておけ」
何故か余計な仕事を自分から作ったヨセフは、今度は女性の意見を聞こうと、日頃リンファを見ているであろう寮母ロードピース・シンデレラの元に向かった。
「まさかセクハラでもしたんじゃねーだろーなァ? おー穢らわしいっ」
話を聞くなり、けんもほろろだった。
しかしヨセフは生真面目に返す。
「そんなつもりは無かったが……だが自覚も無しにしていたのなら問題だ。あとで自分の行動を洗い出し検証しよう」
「あんたって、時々頭の良いバカになるよね」
「? どういう意味だ?」
「唐変木ってことだよっこのすっとこどっこい!」
呆れたように返すシンデレラに、首をひねりながらその場を後にするヨセフだった。
そして今、部屋へと戻りながらヨセフは悩んでいた。
(まるで手掛かりなしか)
何人かに話を聞いて回り手応えの無かったヨセフは、今度は過去の情報を思い出しながら考える。
(そういえば、アディティとの契約を終えたあとぐらいに反応が変わった気がする)
乙女心は分からなくても記憶力は素晴らしいヨセフは、記憶から情報を引っ張り出してくる。
「アディティに会えば何か分かる可能性があるか? だがどうやって喚び出す? 俺とひとりの魔力で喚び出すには難しいが、俺個人のことで誰かに余計な魔力を使わせるわけにも――」
などと呟いていると、ひょいっとメフィストが現れた。
「おもろかしい気配がするので参上でーす」
「そういえばお前が居たな。お前なら良いか」
「何だかひどいこと言われてる気がしまーす」
「気にするな。それより力を貸してくれないか――」
というわけで、メフィストの力を借りアディティを喚んだ。
「契りを結ぶ気になりんしたか?」
「いや、そのつもりはない」
ヨセフは喚び出したアディティに事情を説明すると、アディティはしなだれかかるように言った。
「いけずな旦那はんでありんすなぁ。わっちを喚んでおいて、他の女の話をするなんしか?」
「すまんな。気を悪くしたなら謝る。だがどうしても考えつかんのだ。頼りにさせてくれないか」
頭を下げるヨセフに、アディティは楽しげにころころと笑い応えた。
「いいでありんすよぅ。女のために頭を下げられる旦那はんにひとつ、女を教えてあげしんす」
そう言うと、しなだれかかりながら、耳元で囁くように言った。
「そんなに気になるなら、面と向かって本人に聞きなんし」
「……それしかないか」
「やっぱり旦那はん、いけずでありんすなぁ。元からそのつもりでありんしたな?」
「迷いはあったんでな。その後押しをして貰ったことは助かる。礼を言う」
これにアディティはころころ笑うと、続けて問い掛けた。
「それで旦那はん、どうするつもでありんすか?」
「何よりも時間を作らなければな。そのための苦労なら幾らでもする。それとあとは……同じ話を聞くのでも、落ち着いた場所で食事でもしながらの方が良いだろう。その方がリラックスできる」
ヨセフの応えに、アディティはきょとんとしたあと、けらけらと笑いながら言った。
「罪作りなお人でありんすなぁ、旦那はんは。ふふ、なら、わっちも知恵を出させて貰いんす」
「そうか? すまんな、助かる」
礼を言うヨセフを、どこか舌舐めずりするような目で見ながら、ヨセフに色々と知恵を吹き込むアディティだった。
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「ここ、か……」
うらぶれていながら、どこか喧騒を滲ませる場所に『バルダー・アーテル』は訪れていた。
「……ろくでもない街だな」
ため息交じりに呟きながら、街へと踏み入る。
入っただけで、どこか空気が変わるのが分かった。
どろりと澱んでいながら、そのくせ妙な活気が感じられる。
品定めするような視線が、どこからともなく投げかけられていた。
それは警戒と、獲物を見詰めるような匂いが漂う。
さりげなく視線を周囲に向ければ、まだ昼前だというのに酔いつぶれ道端に寝転がる年寄りや、扇情的な服装に身を包んだ女達。
(昼前だってのに、客の見定めか)
かつて私設警護組織に所属していたバルダーとしては、荒事なら慣れているが、見た目に反して初心な所があるので、女に言い寄られるのは勘弁して欲しい所だ。
こんな街など、すぐにでも離れたい所ではあるが、そうもいかない。
彼の相棒である『スティレッタ・オンブラ』のことを知るためにも、この街を巡る必要があった。
事の起こりは、スティレッタの過去について気になったことが始まり。
スティレッタが『悪魔の女』と呼ばれていることを知り教団内の資料を探っていたのだが、調べきれなかったため、かつて彼女が保護されたという場所に訪れたのだ。
(さて、どこから調べるか)
教団の資料では、街の名前は記されていたが、具体的にどこに住んでいたのかなどの詳細までは書かれていなかった。
ここから調べるのは苦労しそうだ。
ため息ひとつ。
どうせなら酒のひとつでも口にしたい所だが、それを堪え聞き込みに動く。
「よう、ちょっといいか?」
「あ~?」
まずはダメ元で、道端で寝転がっている年寄りに声を掛ける。
「人を探してるんだ。知ってたら教えてくれないか?」
「あー、人? 人かぁ……ひひっ、なんだにぃちゃん、逃げた女でも探してんのか?」
年寄りは酒でぼやけた視線を向けながらも、思ったよりも明瞭な声で返してきた。
「女はなぁ、追い駆けちゃダメだ。ひひっ、追い駆けさせねぇと。でねえと尻に敷かれちまうぞ」
「そんなんじゃねぇよ」
げんなりしつつも、バルダーは尋ねる。
「スティレッタって女が、昔ここに居たって話だ。どこに住んでたか知らねぇか?」
「んぁ? なんだやっぱにぃちゃん、女探してんじゃねぇか。逃げられたんだろ、そうだろ」
「違ぇよ」
「ひひひっ、分かった分かった。そうだろそうだろ」
何が楽しいのかケラケラと笑いながら、年寄りは彼なりに親身になって応えた。
「生憎と、俺は知らねぇけどよ、女のことは女に聞いた方が早ぇぜ。ほらほら、たちんぼのネエさん方に声かけてきなって」
「遠慮しとくよ」
そう言ってバルダーは小銭を取り出し年寄りに握らせる。
「ありがとよ、爺さん。こいつで、俺が言えたこっちゃねぇが、酒以外の物を口にしな」
「ありがたいねぇ」
喉の奥を鳴らすようにして年寄りは笑うと、よたよたとどこかに向かった。
(さて、撒き餌は終わったが、誰か引っかかるか?)
バルダーが、わざわざ人の目に付くように金を掴ませたのは、周囲にちょっかいを出させるためだ。
食いつき易い相手と思って突っかかって来たなら、それでよし。
そこから手繰れば、何か分かるかもしれない。
当てもなく聞きまわるよりはいいだろう。
そう思って訊き込みをしていると、声を掛けられた。
「ねぇ、そこの、おにぃさん」
ひきつりそうになる顔を無理やり押さえ、バルダーは声の主に体を向ける。
「なんだ?」
「人を探してるんだろう、アンタ」
上目遣いで女が声を掛けて来る。
コートを羽織っているが、その下は、今の時期は明らかに寒いだろうと言いたくなるような薄着姿。
(勘弁してくれ……)
これなら荒事の方が良いと思いつつも、今の所スティレッタに繋がる情報は得られていないので話を聞く。
「俺が探してる女のことを知ってるのか?」
「知ってるよぅ。でも、ここで言うのはねぇ」
女は甘えた声でしなだれかかってこようとする。
ひょいっと女を避けながら、バルダーは返した。
「金か? 内容によっては、それなりに払う」
「ふふ、せっかちねぇ。知りたいなら、人目に付かない所に行きましょう」
女の声は、変わらず甘い。
けれどそれは、雌獅子が獲物を見つけた時の物と同じだと、バルダーは気付いている。とはいえ――
(こういうの、なんて言うんだっけか……欲しいものがあるならライオンの巣だろうと飛び込め……いや違うか。まぁ、このままじゃ埒が明かないしな)
「分かった。どこに行けば良い?」
笑みを深めた女の後についていくと、人目から離れた路地裏に辿り着く。
「で、何を知ってんだ?」
女に聞いていると、背後から数人の足音が聞こえてくる。
「……ま、こうなるか」
ため息をつきながら、襲い掛かって来た男達をバルダーは叩きのめした。
「アンタ!」
バルダーを嵌めようとした女が、叩きのめされた男達の1人に縋りつく。
「なにすんだい!」
男を抱き寄せながら睨みつけてくる女に、うんざりした声でバルダーは言った。
「それはこっちの台詞だ。なんで俺を襲った」
これに返したのは、新たに現れた男だった。
「そう責めないでくれ。アンタも悪いんだぜ。よりにもよって、あの女のことなんか聞いて回ってんだから」
「……誰だ、お前」
バルダーが訊くと、二十歳そこそこに見える男は返す。
「ヘルシングってもんだ。ああ、そいつらの仲間じゃない。ただ、色々と揉め事を片付けることが多いだけでね」
「ヴァンのダンナ……」
掠れた声で、女に抱き寄せられたままの男が名前を呼ぶ。
するとヴァンと呼ばれた男は、手を振って去るように言った。
「ここは俺が預かる。怪我してるんだからさっさと治せ。ミオちゃんに心配かけんじゃねぇぞ」
そう言うと、男達は静かに去って行く。
「……おい、勝手なことしてくれるな」
「まぁまぁ、にぃさん。この場を収める詫びと言っちゃなんだが、アンタが知りたがってたことを教えてやるよ」
「……どういうつもりだ?」
「心配しなさんな。こっちとしちゃ、これ以上余計に嗅ぎ回られて、無用な争いを起こさせたくないってだけだ」
そう言うとヴァンは、にやりと笑う。
「まぁ、立ち話もなんだ。一杯やりながら話をしよう。いける口だろ?」
「……寝覚めの良い酒なら、な」
手掛かりを知るらしいヴァンの後を付いて、バルダーは酒場に向かった。
そこで手に入れた話を元に、バルダーは燃え尽きたまま放っておかれた古い教会の前に来ていた。
(ここにスティレッタが……)
教会跡地を探りながら、バルダーは酒場で聞いた話を思い出していた。
(あの街の顔役の1人の愛人だった、か……)
酒場でヴァンが話したことは、バルダーの想像を超えていた。
「この街の顔役の1人だったブラム・ストーカーが、アンタが探してる女を『住まわせていた』らしい。女が棺桶から見つかって、からの事らしいが」
「棺桶?」
胡散臭げに聞き返すバルダーにヴァンは言ったのだ。
「そのまんまの意味さ。今じゃ燃えあとしか残ってない教会の下から掘り起こされたらしい。なんでそんなことをしたのかは、知らないけどね。棺桶に入ってた女は、一糸まとわぬ全裸だったってのに、スティレットを持ってたって話だ」
「スティレット、か……」
「何でそんなもんを握ってたのか、その辺は知らないがね。気になるなら場所を教えるから、行ってみたらどうだい?」
そして今、バルダーは、そこに居る。
「……こいつか」
ヴァンに用意して貰ったスコップで地面を掘り起こしたバルダーは、棺桶を引っ張り出す。
(この中に居たってわけか。それにしても――)
「スティレットを持っていたからスティレッタ、か……」
「分かり易くて良いじゃない」
背後から聞こえてきたスティレッタの声にバルダーは驚いて声を返す。
「!? スティレッタ、いつの間に!」
「……つけてみたら、まさかこんなことしてたなんてね」
気だるげにスティレッタは言った。
「全く、確かに調べてみなさいなっては言いはしたけども、ここまでするとは思いもしなかったわ。まあ今回ばかりはシロスケの愚直っぷりを読めなかった私の落度でもあるから責めはしないけど」
「調べてみろって言ったのはお前だろうが!」
「そうね……で、感想は?」
「別に。お前の名前の由来が知れたってだけだ」
平然と言うバルダーに、スティレッタは少しだけ惚けた顔をすると、普段と変わらぬ表情になって言った。
「何も言わないのね? 私の過去を知っても」
「お前がどんな生き方をしようが知ったことじゃない」
ハッキリとバルダーは言い切ると、どこか気遣うように続ける。
「こんな世界を最初に見たんじゃ、大変だったろう」
「同情してくれるの? そんなこと言われたの多分初めて」
くすくす笑い、スティレッタは続ける。
「よく気ままに生きてる猫を見て羨ましいなんて言う人いるけど、猫には猫の苦労があるのよ。そもそも飼い主が優しいとは限らないしね。私達はそれと一緒。ライオンみたいに常に強くあり続けるのも辛いって知ってるつもりだけどね」
「……猫には猫の苦労が、ね……」
どこか心の柔らかな部分を話しているように感じたバルダーは、話を逸らすように続けて言った。
「そういえば、棺桶の中に入っていた時の記憶はあるのか?」
「棺桶の中から見つかったっていう記憶はあるわ」
2人は話しながら、位置取りをする。
それは不審な気配を感じたからだ。
気配の主たちは、殺気を漲らせ襲い掛かってくる。しかし――
「ベリアルとかに比べりゃ、どうってこたねぇな」
瞬く間に全員を叩きのめす。
「なんだ、お前ら」
バルダーが訊くと、男達は憎々しげに言った。
「そいつのせいでボスは死んだんだ。悪魔の女め!」
「なに言ってんだ……」
呆れたようにバルダーは、ため息をつく。
スティレッタが教団に保護される直前、男達のボスであるブラムは死んだらしいが、それで襲い掛かって来るのはお門違いだ。
「そら自業自得だ。何でもかんでもヴァンピールのせいにするんじゃねぇ!」
全員を改めて叩きのめし逃げ帰らせると、焼け跡の教会をぼんやりと見詰めながらスティレッタは言った。
「無駄足だったんじゃないかしら?」
「……」
とこか自嘲を込めて呟くスティレッタに、バルダーは無言で黒猫のぬいぐるみを取り出し渡す。
それはバルダーがヴァンから話を聞いたあと、それを頼りに聞いて回り、幾つかの情報と共に手に入れたもの。
ぬいぐるみは、ところどころほつれてボロボロになっていたが、スティレッタは大事そうに受け取った。
「それには愛着あるんじゃないか? 大事なものが見つかったからいいだろ」
「……」
無言でぬいぐるみを抱きしめるスティレッタに、バルダーは言った。
「それに、棺桶に手がかりがある気がしてな……後で教団に持ってって解析を誰かに頼むとするか……」
バルダーの言葉を、受け止めるように静かに聞くスティレッタだった。
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それは冬の気配が近付く、ひんやりとした日のことだった。
「魔獣領域のお手伝い、ですか?」
「そうだ」
ヨセフは『リチェルカーレ・リモージュ』に応えると続けて言った。
「ダヌからの要請でな。放置していると人に狩り尽くされかねない魔獣達を保護する場所を造りたいそうだ」
「すてき。是非、お手伝いさせてください!」
ヨセフの説明を聞いて、リチェルカーレは頬を紅潮させ大きく頷く。
明るい表情になり、今にも飛び出しそうな彼女の様子に、隣りで見ていた『シリウス・セイアッド』は目を細める。
そして苦笑する様に言った。
「……場所や方法を聞かないで行く気か? 迷子になるぞ」
これにリチェルカーレは、少し頬を膨らませ。
「シリウスの意地悪。大丈夫だもん」
信頼しているからこその、甘えるような表情を見せるリチェルカーレに、シリウスも表情をゆるめた。
するとヨセフも小さく笑う。
「もう、室長まで」
リチェルカーレは拗ねるように余計に膨れながら、シリウス達と同じように、気を許した笑みを浮かべていた。
和やかな気配が、室長室に流れる。
今この場に居るのは、リチェルカーレたち三人だけ。
ネームレス・ワンとの死闘が終わり、一息つくような休息を取ったあと、シリウス達はヨセフに呼ばれたのだ。
ダヌからの要望ということで、すでに何人かの浄化師も動いているらしいのだが、リチェルカーレが興味を持つのではないかということで、ヨセフが話をしてくれたのだ。
「密猟者もちらほら出始めているようだが、今の所は八百万の神やその眷属で対処が出来ているらしい。だから急いでいる訳ではないようだ。慌てずゆっくりやってくれ」
「はい、頑張ります」
今すぐにでも走り出しそうなリチェルカーレに苦笑しながら、ヨセフは続ける。
「ニホンの万物学園に居るリリエラにも詳しい話が行っているそうだ。便宜を図ってくれるらしい。リチェルカーレ達は顔見知りだから、ちょうど適任だろう」
そこまで言うと、ヨセフは悪戯めいた視線をシリウスに向け、続けて言った。
「急いでいないから、ついでにゆっくりしてくるといい」
「……」
ヨセフの言葉に、若干目を逸らすシリウスだった。
そして今、リチェルカーレ達は富士樹海迷宮に訪れる前に、リリエラの元に訪れていた。
「リリエラさん。こんにちは!」
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
笑顔を浮かべ挨拶するリチェルカーレに、ほわほわ笑顔で迎え入れるリリエラ。
「遠くから大変だったでしょう。疲れてない?」
「大丈夫です。清明室長と道満さんに助けて貰いましたから」
ニホンに転移方舟で渡った後、ニホン支部の室長である清明が万物学園にまで向かう手続きを全てしてくれ、道満が配下の龍に頼み、背中に乗せ運んでくれたのだ。
「葛葉を助けて貰う手助けをして貰いましたから。ささやかなお礼です」
「おう。気にすんな」
清明は生まれ変わる前は葛葉と恋人だったらしく、今生では夫婦になるらしい。
とはいえ、その前に道満をぶっ飛ばさないとダメらしいが。
「お義父さん、いい加減葛葉との仲を認めて下さい」
「うっさいばーかうっさいばーか。夫婦に成りたけりゃ俺を超え――ってなんで葛葉までそっちにいんだよ!」
そんな感じに、賑やかな中、見送られ。
まだまだ日が高い内に辿り着いている。
「疲れていないのなら、好かったわ」
リチェルカーレの話を聞いたリリエラは笑みを浮かべながら続ける。
「ダヌ様の元に行く時も、竜の背に乗せて貰えるの? 乗り心地は、どう?」
「はい。背中は温かくて、快適なんです」
リチェルカーレ達が乗って来た龍は、ドラゴンというよりも蛇のような姿に近く。
一見鱗があって固そうではあったが、そんなことはなかった。
適度な弾力と温かさがあって、その上、空を飛んでいる間は魔法が使われているらしく、風も当たらず滑り落ちたりすることも一切なく快適だった。
ちなみに乗せて来た龍は、万物学園の運動場で寝そべっているが、学生たちがわらわら来て、物珍しそうにべたべた触っていた。
「この国の竜は、龍神の眷属が多いというから、その内の1人なんでしょうね」
リリエラは説明すると、続けて言った。
「竜に乗せて貰えるなら、ダヌ様の所まですぐに行けるわね。それなら時間もあるし、守り木の様子を見ていく?」
「はい! お願いします!」
リリエラの申し出に、リチェルカーレは嬉しそうに応える。
そうして守り木がある植物園へと向かう道中で、リチェルカーレはリリエラに礼を言った。
「リリエラさん。母の所に珍しい植物を送ってくれているって、母からの手紙で知りました。ありがとうございます」
「気にしないで。ケントがお世話になってるし、今まで貴方達に助けられたから。少しでもお礼をしたいと思って」
リリエラの弟のケントは、リチェルカーレの実家である花屋さんでバイトをしている。
「ケントは気に入ってるみたい。色々な花の扱いも知ることが出来て喜んでるわ」
和やかにリチェルカーレとリリエラはお喋りを続ける。
そんな2人を邪魔しないように、シリウスは少し下がって見守っていた。
弾むリチェルカーレの楽しげな声に、誰にも気づかれないほど小さくシリウスは息をつく。
(失わなくてよかった)
リチェルカーレの命も笑顔も、なにひとつ失われず。
彼女の傍に居る事の出来る今を、シリウスは何よりも尊ぶ。
そうだとしても、今まで抱いていた恐怖が消えた訳じゃない。
リチェルカーレを失うことも、そして傍に居ることも。
どうしても『怖い』と思ってしまう。
けれどそれでも、彼女の傍に居たいという祈りにも似た願いが、シリウスを繋ぎ止めていた。
そんな彼に、リリエラは僅かに視線を向ける。
苦笑するような、あるいは見透かすような眼差し。
長き時を生きてきた魔女は、それを気付かせず、祝福するように思う。
(2人が幸せでありますように)
言葉にすれば消えてしまう気がして、口には出さず願っていた。
それぞれの想いを言葉に出来ずにいたが、やがて守り木のある植物園に辿り着く。
「わぁ、元気に育ってますね」
以前に見た時よりも一回りは大きくなった守り木は、枝葉も立派に伸びている。
「貴女のお蔭だと思うわ」
リリエラは、守り木の成長を喜ぶリチェルカーレに言った。
「この子のために歌ってあげたでしょう? それから伸びが良いの。多分、貴女の歌で、この子の魔力回路が広がったんだと思う」
リリエラの説明によれば、魔力を込めた歌をリチェルカーレが贈ってくれたお蔭で、それをより強く受け止めたいと思った守り木が、外部に繋がる魔力回路を成長させたのだという。
これを聞いたリチェルカーレは、目を輝かせながら言った。
「リリエラさん、また歌っても良いですか? この子のために歌ってあげたいんです」
「ええ、もちろんよ。私からもお願いするわ」
リリエラの了承も受けて、リチェルカーレは歌を奏でる。
(元気に育って、早く大きくなってね)
優しい旋律が、のびやかに広がっていく。
それは命の喜びを奏でる歌。
ネームレス・ワンとの最後の戦いの時、世界樹たる原初の巨木達と共に響かせた唄だった。
心地好い歌声に、この場に居る皆は聞き惚れていく。
シリウスは、リチェルカーレを眩しく尊いものを見るように目を細め、彼女の歌に心をゆだねていく。
リリエラは目をつむり、歌が紡ぐ命の広がりを心で感じていた。
そして守り木も、2人と同じく。
リチェルカーレの歌を求め、応えるように反応する。
始まりはほのかに、けれど少しずつ確かな光を生み出していく。
それはリチェルカーレの歌のリズムに合わせ脈動し、そのたびに光を舞い広げていった。
歌と輝きの交響曲が奏でられる。
音は無くとも、確かに守り木は、リチェルカーレと共に歌っていた。
そして歌は終わりへと向かい、染み入るような余韻と共に、最後の旋律が響き終った。
「好かったわ。とても好い歌だったわ、リチェちゃん」
リリエラは、リチェルカーレを手放しで褒めると、シリウスに視線を向け促すように言った。
「貴方も、そう思うでしょう?」
「……ああ、好い歌だった。好きな、歌だ」
静かに、けれど最上の言葉で、シリウスはリチェルカーレの歌を褒める。
「ありがとう」
はにかむようにリチェルカーレは、2人の言葉を受け取った。
そして彼女の歌を褒めたのは、守り木も同じ。
いまだ輝きを纏っていた守り木は、輝きの全てを放出すると、その全てがリチェルカーレの前に集まる。
それは光の卵のような形を取ると、幾度かの脈動の後に割れた。
「ぴぃ」
光の卵が割れたあと、現れた生き物を見てリチェルカーレは歓声を上げる。
「かわいい!」
それは若葉色の目をリチェルカーレに向け、ふわふわと宙に浮きながら小首を傾げた。
「まぁ、ドリアードね」
「ドリアード、ですか?」
聞き返すリチェルカーレに、リリエラが説明する。
「簡単に言うと、木の精ね。強い力を持った木が、自分を護るために生み出す眷属よ。今はまだ魔力生命体に近いけど、成長すれば生身の肉体を持った存在に成るわ。最初は蜂蜜を上げて、大きくなって来たら果物を上げると良いわね。成長すれば、幾つか魔法を使えるようになるわ」
「……ドリアード」
目を点にしたシリウスが、ドリアードを見詰めた。
体長は30㎝ほどで、背中に花弁を思わせる翼が生えている。
上半身は女の子といった姿だが、恐らくだが下半身が鳥のような姿をしている。
どういうわけか、リチェルカーレに似た服装をしていた。
「服は、リチェちゃんが着てるのを守り木が真似たんでしょうね」
リリエラはドリアードを見詰めながら続ける。
「多分、リチェちゃんの歌に反応して守り木が生み出したのね。守り木の気持ちに連動して生まれてるから、リチェちゃんに懐いてるみたい」
リリエラの言う通り、ドリアードは生まれたばかりの小鳥のように、リチェルカーレの回りをふよふよと浮かんでいる。
「リリエラさん、この子、どうなるんですか?」
ドリアードを構いながらリチェルカーレが問うと、リリエラは応えた。
「本来のドリアードは生み出した木を護るんだけど、この子は違うみたいね。守り木が歌のお礼のつもりで生み出したのかも。なら、契約してみる? この子も分類は魔獣の一種だから出来るわよ」
「え、魔獣? 契約? ……やってみたいです! この子、連れて帰りたいです」
「連れていくって……犬や猫じゃあるまいし」
シリウスの言葉に、じっと縋るように見詰めて来るリチェルカーレとドリアード。
「……分かった」
思わず怯んだシリウスが了承すると、早速契約術を行う。
「これで良し。リチェちゃんとの因果線を結んだから契約術は成立ね。これで言葉が通じなくても、ある程度の意思疎通は出来るようになるし、離れていても口寄せ魔方陣で喚べるようになるわ」
リリエラの言葉を聞いてリチェルカーレがドリアードを見詰めると、嬉しそうにきゅっと抱きついてくる。
「かわいい」
満面の笑顔で抱きしめてやるリチェルカーレ。
それを見ていたシリウスは苦笑する。
(……契約獣のイメージとは、だいぶ違うな)
そう思いながらドリアードの小さな頭を撫でると、嬉しそうに笑顔で応えるのだった。
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「姫さま、疲れていませんか?」
「大丈夫!」
満面の笑顔を浮かべ、エルリアと手を繋いでいるメアリーは嬉しそうに返した。
それにエルリアは、優しい笑顔で応える。
2人の様子を見ていた『アリシア・ムーンライト』は、じんわりと温かな気持ちになった。
(リア姉様……好かった……)
ほっと安心する。
アリシアは今、平穏な幸せを噛みしめていた。
(リア姉様と、故郷に帰れる日が、来るなんて)
いま皆が向かっているのは、アリシアの生まれ故郷。
ネームレス・ワンとの最後の戦いが終わり一息ついた頃、『クリストフ・フォンシラー』に提案されたのだ。
「まだ世の中不安定な部分もあるけど、ようやくここまで来れたね」
そう言うと、穏やかな笑みを浮かべ続けた。
「改めて、両親に会いに行こうと思うんだ。今度は、エルリアも連れて」
僅かに息を飲むような間を空けて、その時アリシアは応えた。
「はい……私も、そうしたいです」
そのあと、虚栄の孤島に向かい。
エルリアに話すと、彼女は応えを悩んでいた。
けれどそれを変えたのは、メアリーだった。
「お姉ちゃんの生まれ故郷に行くの? 私も行きたい!」
目を輝かせて言うメアリーに、エルリアは慌てて止めようとしたが、その騒動に気付いたヴァーミリオンが助け舟を出してくれた。
「姫さまが行きたいなら俺と、ルシオとカミラ。あとジータに何人か人選させて護衛に就く」
「でも……」
悩むエルリアに、ヴァーミリオンは安心させるように言った。
「心配するな。姫さまにとっちゃ小旅行。俺達にとっちゃ、姫さまを国の外に出す時の演習になる。ジータのヤツにゃ、俺達が居ない時に国の手配をする練習になるしな。あいつも、いつまでも古巣に拘らせてるわけにゃいかないからな」
なにやら含みを持った笑みを浮かべたあと、続けて言った。
「なにより、折角の機会だ。帰れる故郷があるなら、行ってみれば良い。そのための苦労なら、いくらでもしてやるよ。だから、心配すんな」
「……はい」
ヴァーミリオンに見詰められ、僅かに視線を伏せたあと、応えるエルリアだった。
そして今、まずはクリストフの両親が居る診療所まで皆で向っていたのだ。
「大丈夫だよ、アリシア」
エルリアのことを気に掛けていたアリシアに、クリストフが声を掛ける。
「ほら、エルリア、笑ってるだろ」
「そうですね、姉様の笑顔に、嘘は無いです、から」
メアリーと手を繋ぎながら笑顔を見せるエルリアを見て、嬉しそうに頷くアリシアだった。
そしてしばし歩き、診療所が見え始める。
「リア姉様」
アリシアが近付き声を掛けると、僅かに声を硬くしてエルリアが返す。
「……大丈夫」
「お姉ちゃん……」
メアリーが心配そうにエルリアを見上げ、ぎゅっと繋いだ手を強く握る。すると――
「姫さま。あっちで綺麗な花見つけたから、見に行かねぇか」
ヴァーミリオンが、ひょいっと近付くと声を掛けて来る。
「姫さまの第一の騎士に、エスコートする栄誉を賜りたく」
おどけるようにメアリーに手を差し出すヴァーミリオン。
これにメアリーは、くすぐったそうに笑うと、エルリア達に手を振って少しの間離れる。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
メアリーに見送られ、エルリアは小さく息をつく。
そしてアリシアを見詰め、言った。
「行きましょう、シア」
「はい、リア姉さま」
仲良く2人連れだって歩き出すアリシアとエルリアを気遣うように、クリストフが少しだけ先に進み、診療所のドアをあけ帰郷を告げた。
「ただいま。アリシアと、エルリアも一緒に帰って来たよ」
ドアを開けると両親が、既にいた。
「お帰り」
「リアちゃんは?」
エルリアのことを気遣う、父であるアルベルトと母の輝に、クリストフは嬉しそうに返した。
「もう、来てるよ」
ドアを開け、両親にアリシアとエルリアが来たことを知らせる。
「リアちゃん!」
エルリアの姿を見るなり、輝は走り出す。
「良かった……本当に、良かった……」
万感の思いを込めるように、ぎゅっと抱きしめる。
「小母様……」
抱きしめられ、涙を堪えるようにして返すエルリアに――
「お帰り、エルリア。あの時、助けてやれなくて、すまなかった」
アルベルトが迎え入れるように、輝と同じように抱きしめた。
「……小父様」
温かな抱擁に、エルリアは堪えきれず涙を溢れさせる。
「2人とも……昔と、同じ……」
想いは溢れ、言葉では足らず、エルリアは輝とアルベルトを抱きしめ返した。
「リア姉様……」
エルリア達の様子に、アリシアは涙を流し。
クリストフは静かに寄り添いながら、黙って見守っていた。
短くない時間を共に過ごしたあと、心が落ち着いたエルリア達は、そっと離れる。
「ただいま、帰りました」
「おかえり」
「お帰りなさい」
改めて迎え入れるアルベルトと輝。
そこにクリストフが声を掛けた。
「ここで立ち話もなんだから、家に入ろう。俺達以外にも来て貰ってるから、一緒に入って貰っても良いかな?」
両親は頷き、皆で診療所も兼ねたフォンシラー家にお邪魔する。
「どうぞ。薬草茶ですけれど、甘みがあるから美味しいですよ」
「ありがとー」
にこにこ笑顔で礼を言うメアリー。
フォンシラー家は診療所も兼ねているので、奥の方には入院用の部屋もある。
それ以外にも来客用の部屋もあるので、そこで皆をもてなしていた。
「小母様、私も手伝います」
「いいのよ。リアちゃんは、お客さまなんだから」
「でも……」
気遣うエルリアに、輝は茶目っ気のある笑顔を向け言った。
「気になるなら、リアちゃんのお話を聞かせてくれる?」
これにエルリアが何か返そうとするより早く、ヴァーミリオンが言った。
「俺達が居るから姫さまのことは気にするな。それより久しぶりに会って積もる話もあるだろ。甘えさせて貰って来い」
ヴァーミリオンの言葉に促され、エルリアはアリシアと共に、フォンシラー家の皆と共にお喋りをしていった。
「苦労したのね、リアちゃん」
エルリアの過去話を聞いた輝は、涙ぐみながら真摯に話を聞いていく。
そんな輝に、エルリアは応えた。
「はい。でも、今は違います。シアも、クリスも、みんなが居て、小母様と小父様にも会えましたから」
「そうか。好かった」
エルリアの落ち着いた様子に、アルベルトは安堵したように返す。
「良くして貰っているようだね。安心したよ」
「はい、本当に……姫さまと、ヴァーミリオンさんのお蔭です」
これに輝は嬉しそうな笑顔を浮かべ、話の花を咲かせていく。
「リアちゃんは、これからもお姫様の侍女として向こうに居るの?」
「はい。姫さまが望んでくれるなら、ずっとお傍にお仕えしたいと思っています」
「きっとお姫様も、リアちゃんに、ずっと傍に居て欲しいと思っているはずよ」
そこまで言うと、輝は茶目っ気を込めた笑みを浮かべ続ける。
「ふふ、でも残念ね。昔はね、リアちゃんがお嫁に来てくれたらいいなと思ってたのよ」
これを聞いて、僅かに眉を寄せるクリストフ。
一方隣りで聞いていたアルベルトは変わらぬ様子で笑みを浮かべている。
けれどアリシアは、そうもいかない。
(姉様をお嫁に……)
ズキリと心が疼く。なぜなら――
(もしかしたら姉様もクリスを好きだったかも)
アリシアは、そう考えたこともあったからだ。
けれどそれを、エルリアの応えが吹き飛ばす。
「それはあり得なかったです、ごめんなさい」
静かに、けれどちょっとだけ、慌てたように言った。
「昔、私が好きだったのは、アルベルト先生でしたから」
これに輝は目をぱちくり。アリシアは、一瞬息を飲むように驚いた。
「……え、お義父様の方……?」
心底驚きながらも、心の奥で安堵するアリシアの横では、少しばかり困った様子を隠しきれないクリストフ。
(やめて欲しいなあ。心の傷抉らないで欲しい)
当時の記憶を思い出している彼にとって、それは苦い思い出。
(エルリアが誰を見てるか、当時の俺は気付いてた)
そう思いながらアルベルトに視線を向けると、変わらぬ笑顔を浮かべている。
「モテて良かったわねえ、アル?」
面白そうに夫に聞く輝に、息子のクリストフの方が気恥ずかしくなって返す。
「ああ、ほらもう、いい歳してヤキモチ妬くなよ母さん」
これにくすくす笑いながら、アルベルトと一緒になって笑みを浮かべる輝。
両親の様子に軽くため息ひとつ。苦笑しながら――
(俺達も歳を取ってもこんな夫婦でいられたらな)
顔には出さず思っていた。
そして、そこからエルリアの恋バナに。
「いま、好きな人はいないのか?」
アルベルトの言葉に、小さく笑みを浮かべ応える。
「います」
言葉少なく、それ以上は、はぐらかす様に。
そこからは他の話題をアルベルトが口にして、輝が広げる。
ふと気付けば、時間が過ぎて。
折角だから泊まって欲しいという輝達の申し出を受けた一行は、料理を振る舞われたあと、それぞれ寝床に向かった。
そこでアリシアは、エルリアに問い掛ける。
「リア姉様、寝る前に、聞いても良いですか?」
「私が、好きな人のこと?」
「……はい」
真剣に見つめるアリシアに、エルリアは静かに応えた。
「ヴァーミリオンさんよ。だって私を、助けてくれたから。それに私が強くなりたいと願ったら、ちゃんと誤魔化さず向き合ってくれた」
滔々と、ヴァーミリオンへの想いを口にする。
それは一言一言、密やかだが確かな想いを感じさせた。
(リア姉様……本当に、好き、なんですね)
エルリアの想いを知ったアリシアは、じっと姉の想いを聞き続ける。
そんなアリシアの様子にエルリアは、くすっと、小さく笑みを浮かべたあと言った。
「次は、シアの番。クリスの好きな所、教えて貰うわよ」
「え……でも、それは……」
「ダメよ。私だって、恥ずかしかったんだから。教えてね、シア」
「……はい」
ベッドの上で両隣になりながら、2人は姉妹のガールズトークに花を咲かせた。
ちなみにその頃――
(なんだろう。くすぐったい気持ちになる)
寝所に就いたクリストフは、何故だかよく分からない気持ちになっていた。
同室には、すでに寝入ったヴァーミリオン。
診療所の空きを借りて寝ている。
そちらに視線を向け思う。
(にしても……エルリアの想い人って……まさか……)
などと考えている頃、アリシアとエルリアは同じベッドに入り一緒に眠りに就く。
寝入る前に、アリシアは言った。
「姉様の想いは、きっと成就します。だって姉様はこんなに素敵なんですもの」
これにエルリアは、小さく笑みをこぼす。
そして手を繋ぎ、2人は眠りに就いた。
次の日、帰る前。
アリシアとクリストフは、エルリアを故郷へと連れていく。
そこは一面の勿忘草の花畑。
「……」
かつての家は無く。
けれど思い出と共に、エルリアは迎え入れられた。
「……」
無言で、エルリアは恐れるように近付けない。
それは想いがあまりにも大き過ぎたから。けれど――
「お姉ちゃん」
「リア姉さま」
メアリーとアリシア、2人の妹に手を繋がれ、勿忘草の花畑へと向かう。
「きれいだね!」
「リア姉様と、一緒に見る事が出来て、嬉しいです」
「……ええ……私も……」
涙と共に、エルリアは2人の妹と一緒に故郷へと帰って来た。
「お帰り」
彼女達の様子に、クリストフは思わず呟く。
それに応えるように、静かな風が吹き、勿忘草はそよいだ。
お帰り、と言うように。
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それは、後に『神魔大戦』と呼称される戦いの少し前。
何処とも知れない、深い森。その奥にポツンと立つ廃墟化した屋敷。
人の気など在るとは思えないその一室で、言葉を交わす小さな人影二つ。
「……興味ないよ……」
床に書かれた魔方陣と、昏く輝く魔結晶。
灯される蝋燭が揺れて。
吐き気をもよおす程に香しい、雑多数多の薬の匂い。
「神? 人? 知らないよ。意味ないよ。不必要だよ。銀狼だけだよ。銀狼だけなんだ。必要なのは。大切なのは」
アイボリー色の髪に、真っ白いドレス。赤い頭巾を頭からすっぽりと被った、十歳くらいの少女。
彼女は、魔女。
人を殺し喰らう、危険な魔女の一派。『怨讐派』と呼ばれる中でも、なお異端。
蛮行を咎めて命を失った戦士・浄化師、数知れず。
余の人々は、恐怖と嫌悪を交えて呼称する。
悪意。
愛意。
『アクイの魔女』。
「帰って。ボクは彼を、銀狼を呼び戻さなきゃいけないんだ。早く。早く。なのに、なのにボクは……ああ、あぁ……どうして……どうして……」
彼女がブチブチとアイボリーを毟り始めた途端、バチンと軽い衝撃が小さな頭を揺らした。
「話してる途中だぞ? 勝手に『飛ぶ』な」
アクイにかかる、呆れた声。
アクイと同じ、幼い少女の姿。けれど、その身を彩るのは純白と真紅ではなく、琥珀一色。
最古にして最強の魔女の一人。
『麗石の魔女・琥珀姫』。
彼女はアクイの胡乱な視線を意にも介さず、傍らにあった椅子にチョコンと座る。
「まあ、そう無碍にするな。創造神がやろうとしているのは、今の世界を丸々上書きする事だ。そうなれば当然、お前と銀狼も諸共に真っ新だ。望む仲には、戻れないぞ?」
「……知らない……」
説く琥珀姫から視線を逸らし、抑揚のない声で言う。
「計算したよ。殺したよ。組み立てたよ。演算したよ。願ったよ。呪ったよ。そしてまた殺したよ。何度も何度も幾度も幾度も何人も何人も」
壊れた蓄音機の様に捲し立てる、金切り声。恐怖も困惑も。不快さえも示さず。琥珀の姫は耳を傾ける。
「でも、あの子は。彼は。銀狼は。戻ってくれない帰ってこない」
壊れた声音。混じる、悲哀。
「駄目なんだダメなんだダメだから。だからだからダカラ。だから……」
「いっそ更地に戻ってもう一度、か?」
かけられたのは、嘲りの声。
アクイの目。縮んだ瞳孔が、彼女を見る。
「たまには可愛い声を上げると思ったら、くだらない。諦める事も忘れる事も叶わないから、今までみっともなく足掻いてきたのだろうに。中途半端極まりないな」
「………」
「魔女なんてのは、己の欲に狂ってなんぼの存在だ。とびきり狂った挙句に飲まれるも叶わず我に返る程、みっともない事もない。そんなんじゃあ、神に上書きされた所で箸にも掛からん愚物に成り下がるが関の山だ」
「………」
「ま、むしろ銀狼の奴には都合が良いだろう。これで煩わしいストーカーからも綺麗さっぱり……」
「グラディウス」
呼びかけと共に、アクイの影から飛び出す大剣。持ち手もなしに宙を走り、姫を刺し貫こうと。けれど。
薄い笑みの前を、遮る閃光。
忽然と現れた琥珀の騎士の剣が、グラディウスと呼ばれた大剣を叩き折る。
「スクートゥム、ウンブラ」
立て続けに呼ぶ名。襲い掛かる巨盾と狼の影。だけど。
尽く打ち倒された挙句、喉元に突き付けられる琥珀の刃。
手に、負えない。
「さて、このまま喉笛掻っ切って脳髄だけ持ち帰ってもいいが……」
警戒する素振りさえ見せずに近づいた姫が、アクイの瞳を覗き込む。
「それをやっては怒る子がいる」
笑う琥珀の瞳は、氷の冷。
「正味、わたしにはお前なんぞよりその子を怒らせる方が怖くてね。取り合えず、そっちの方向はやめてやる」
小さな顎を掴んでクイと上げ、顔は間近。
「大人しく従え。何、この戦争の間だけだ。そうすれば、後は自由にやらせてやる。わたしも、自分の妄執に狂った口だからな。お前の『ソレ』を否定は出来ない。邪魔も、しない。ただし、それも此方の意向を受け入れればの話だ。どうしても否と言うのなら……」
琥珀に彩った爪が、額に当たる。灯る、同彩の焔。優しく。微睡み。圧倒的な、魔力。
知っている。理解している。熟知している。
『琥珀の花園、其の種火(ギルウゥス・ルーメン)』。またの名を、『魂縛り』。
琥珀の魔法の中で、最も怖ろしく、最も忌ましき代物。一度灯されてしまえば、抗う術はない。
「用が済んだら、あの子の前に放り出してやろう。不満だろうが、まあ拒みはしないだろうよ。くだらん矜持に溺れて好機を逃す程、あの子の憎悪は安くはないからな」
「……魔女……」
ボソリと呟いた言葉も、細やかな皮肉にすらならず。
「そうさ、わたしは魔女だ。お前と同じ、妄執と言う狂気に溺れるな。世界を守る事も、神を殺すのも。全てはその欲の為。狂気の為。子供達の為だ。矛盾の極みだが、その為ならば……」
――万物全ても――。
眼差し。奥に見えるのは、自分と同等かそれ以上の……。
「……代価を……」
まろびでた言葉に、自身がポカンとする。
けれど、止まらない。タガの外れた本能は、壊れた理性を無視して垂れ流す。
「代価を……導となる、教示を……それなら……」
「本音が出たな。それでいい」
ニヤリと笑んで、姫は説く。
「代価は払おう。だが『ソレ』の代価にするには今度はソッチが足りない」
誘う、悪魔の声音。
「来い。そして、見ろ。人の想いが、神の真理を挫く様を。自分で袋小路に閉じた所で、何も変わりはしない。最も良かった遠い過去は、所詮過去だ。引きずり出すなら、そこから出て探せ。その為の術を。人は、あの子達の命の型は、確かにその導となる」
そして、最後の言の葉。何故か、優しく。
「わたしが、そうだった様にな」
魂を求めて、琥珀の焔が疼く。
どの道、術はない。
◆
薔薇十字教団本部。その、訓練場。
一人の男性を相手取り、攻撃を仕掛ける『ラファエラ・デル・セニオ』と『エフド・ジャーファル』。相手を務めるのは、『ロノウェ』。教団局長を務める、上級狂信者。
必殺の一撃を容易く逆取られ、反撃を受けるラファエラ。尻餅をついて見上げる彼女を見下ろし、ロノウェは『まだまだ』と笑った。
現在、二人はロノウェの助手の立場にある。
彼だけではない。同盟関係にある魔女達からも、教えを受けている。
内容は、死霊術の捜査。そして、対魔女戦術及びその類。
かなり癖の強い人物であるロノウェ(特に、何かのスイッチが入って始まる長語り。常人にとっては、苦行の極み)に就いたのも、嫌う魔女達に乞うのも、たった一つの目的の為。
自分達……否、ラファエラに消えない屈辱を刻んだ『アクイ』を殺す事。
全ては、復讐の為に役立つ技能を求める執念の表れ。
アクイは大戦の際には一応、人の側に就いた。戦績は凄まじく、数多のスケール3・4を殺した。
にも関わらず、ラファエラの復讐に異を唱える者はいない。
それは、同属である筈の魔女達でさえ。世俗派に属する武闘派は、魔女が世の信頼を得る為にアクイの様な輩を討たねばならないと考えている。
誠実さを証明するには、己の澱みは己で浄化せねばならぬのだからと。
「言うまでもないだろうが、彼女は狡猾で強大だ。初めから殺す気で行く他ないだろう」
「あんな腐れアマに、今更憐れむ余地はないわ」
自分の言葉に返った声の不機嫌さに、ロノウェは苦笑する。
「失礼した。正直この余計な忠告は、私自身に言っているのだ」
言って、宙を仰ぐ。
「この教団がどれだけ劇的に変わったか知っているかね。勇ましい善男善女達が、この腐り落ちかけた体制を善意の光で蘇らせた。強く優しい英雄達の騎士団は物語にしかいないという信仰が反証された喜びを、私は未だに良く言い表せない」
感極まる様に。それでも、ただ浸りはせず。
「だが金と暴力がそうである様に、善意もまた万能ではない。奴の前で不確かな希望は持たない事だ。奴はそれをすぐさま利用するだろう」
「知れた事よ……」
「………」
思い詰める様な眼差しで呟くラファエラを、エフドは黙って見つめていた。
◆
「さして執着もないのに、『その約束』の為に何とかやる気を……ですか? いやはや、涙ぐましいと言うかいじらしいと言うか……」
仄明るいバーのカウンター。隣りのエフドの表情を伺うと、『ミスリード』愉快そうに微笑んだ。
「伝わってきますよ。惚気話で私を殺そうとするあなたの殺意が。あんな……大胆不敵な美女と契約できた挙句そこまで信頼されるのが、どれだけ恵まれてるか忘れてません? お幸せな事で。もう一押しでしょうから頑張りなさい」
まあ、言われるまでもないのだが。
話をする相手を間違えたかもしれんなどと思いつつ、ジントニックなぞあおるエフド。けれど、グラスを弄んでいたミスリードの言葉にふと手を止める。
「……しかし、今の彼女には鬼気迫るものがありますね。本当にリベンジと正義感だけの話でしょうか?」
気づく。
思えば自分は、未だ彼女の身の上をほとんど知らない事を。
さて。このミッションで、何か一つも開ける事は出来るだろうか。
これからの。
明日からの。
自分達の為に。
◆
「用向きは何かな? 可愛い子」
「……いい加減、子供扱いはやめてくれない? それと、その薄気味悪い薄ら笑いも」
そんな憎まれ口を叩きながら、ラファエラは目の前の琥珀姫を睨む。
彼女の居城。かつては『琥珀の墓』と呼ばれた忌み地も、今はその面影もなく。浄化師達の訪れを歓迎するかの様に本部から直通のゲートすら繋げられていた。
「すまないな。わたしからすれば、君達は皆可愛い子供だよ。顔が緩むくらいは、許して欲しいものだが」
糠に釘。
それでも、理解している。この親愛の奥に潜む、冷徹な価値観と狂気を。
今一度、人が己の期待を裏切れば。その狂気は即座に牙を剥く。
今度こそ、一欠片の慈悲もなく。けど、今は。
「分かってるでしょう? 貴女なら」
「アクイなら、出かけたよ」
予定調和の様に、姫が答える。
彼女は、外に活路を見出そうとしている。
其れは好機であり、危機。
尻尾を掴み易くなる半面、行く先々で実験が行われる。
枷は、外れたのだから。
「……黙って、見てたの?」
「代わりに、殺って欲しかったか?」
露骨に嫌な顔をして踵を返すラファエラに、『焦るなよ?』と声がかかる。
「見え透いた隙は、寄せ餌だ。アレは、手強いぞ?」
答えも返さず、歩み去る。
酷く楽しそうな笑い声が、送る。
◆
夜、エフドは手紙を書いていた。今は離れた地で暮らす、母に向けて。
――もうしばらく、危ない橋を渡る事になりそうだ。連続殺人鬼の死霊術師を倒さなきゃならん。彼女にとっては、神殺しよりそっちの方が重要らしい。ついてくのが大変だが、当てにされてるのはいいもんだ。自分がここまで働き者になるとは、思わなかったぜ――。
書き終えて、ふと窓を見る。
浮かぶのは、真っ赤な禍月。
いつか、あの光に染まって倒れるのはどちらだろうか?
奴か。
それとも……。
禄でもない夢想から逃げる様に、エフドはそそくさと床に就いた。
◆
戦いの後、アクイは琥珀姫の所を訪れた。
隠遁の停滞を脱し、探求の旅に出る事を。
「世界が変わる。示してくれて、ありがとう」
残して消えた先。
数多の暗闇、答えは何処。
思考はせて、琥珀の姫はただ笑う。
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11月。
秋から冬へと移り変わろうとするこの時期は、寒冷国家であるノルウェンディにとっては、すでに雪の季節だ。
「ありがとー!」
トナカイ便から降りた『シキ・ファイネン』は、ここまで乗せてくれた御者に、ぶんぶん手を振る。
「ほらほら、アルくんも。お礼言わなきゃ」
人懐っこい笑顔を浮かべながら手を引っ張るシキに、『アルトナ・ディール』も御者に礼を言った。
「ありがとう。助かった」
2人に礼を言われ、御者の男は笑顔で応える。
「そげぇに言わんでも、ええてええて。ちょーどこっち通る用事があったけぇ、ついでやついで」
そう言うと男はトナカイを操り、走り去って行った。
シキとアルトナの2人は軽く見送ったあと、目的地に向かって歩き始める。
すでに足首ほどの雪が降り積もっているが、目指す場所に向かう道は踏み固められているお蔭で歩き易い。
「ずいぶんと、人通りが多いみたいだな」
道の様子を見て、アルトナは呟く。これにシキが返した。
「王様に、この辺の復興を頼まれてから、人の出入りが多いみたい。それだけ人手が必要なんだと思う」
「なるほど。だから俺達も呼ばれたというわけか」
アルトナは納得したというように、シキに応えた。
2人は今、シキの実家であるファイネン家へと向かっている。
それはシキの実家から、家の手伝いを頼まれたからだ。
創造神であるネームレス・ワンを打ち倒したあと、世界は少しずつではあるが変化を見せている。
そのひとつが、アシッドが降らなくなったことだ。
これにより新たなべリアルの発生は格段に減っている。
お蔭で、それまでべリアルに対して取らなければいけなかった国防費に余裕が出来、それが復興予算に回されていた。
シキの実家であるファイネン家にも、ロロ王から直々に復興予算が下賜され、周辺地域の復興に動いていた。
とはいえ予算があっても、人手というものは急に用意するのは難しく、白羽の矢が当たったのがシキとアルトナというわけだ。
ざくざくと、踏み固められた雪道を2人は歩く。
2人ともノルウェンディの生まれだけあって、足取りは確かだ。
他所の生まれなら滑ってしまいそうな所も、平然と歩いている。
しばらく歩き、ファイネン家が見え始めた頃、シキは気付いて声を上げた。
「母様?」
シキの声を耳にして、アルトナは視線を先に向ける。
するとそこには、スコップを持って周囲を雪かきしているシキの母、ライラの姿が見えた。
「母様ー! 雪かきなら俺がしますー!」
ライラに気付いたシキが、走ってライラの元に向かう。
同じようにアルトナも走って向かうと、声と足音で気が付いたライラが笑顔で迎え入れてくれる。
「シキ、それにアルくんも。いらっしゃい。早かったわね」
「途中で、トナカイ便に乗せて貰ったんです」
ライラからスコップを受けとり、シキは笑顔で応えながら雪かきを代わる。
「あら、ありがとう。助かるわ」
笑顔を浮かべるライラに、アルトナも声を掛ける。
「他の場所も雪かきが必要だろう。スコップを貸してくれ。手伝う」
「ありがとう。でも大丈夫よ。そっちは――」
「終ったぞ」
ライラが言い終るより早く、声が掛けられる。
その声を聞いて、シキが居住まいを正すように、僅かに緊張したのをアルトナは感じ取った。
声の主は、シキの父親であるヒューベルト。
いつもと変わらぬ厳格な表情で、シキとアルトナに視線を向けた。
その視線を受け、シキは居心地が悪そうな顔になる。
けれど以前なら、首を竦めるような表情を見せていたのだから、確実にシキの様子は変わっていた。
それにヒューベルトは気付いたのか、僅かに目を細めたあと続ける。
「行くぞ、ついて来い」
「え、って、父様どこに?」
シキが慌てて聞き返すと、応えたのはライラだった。
「貴方達の力を貸して欲しい場所があるの。今日来て貰ったのは、そのためなのよ」
そこまで言うと、厳格な表情をしたままのヒューベルトを見詰め、苦笑する様に続けた。
「本当は、お茶のひとつでも出してから、行って貰うつもりだったの。そのために、先に雪かきをして。でも2人が予想外に早く来ちゃったから――」
「早く来たなら、早く済ませた方が良いだろう」
ライラの言葉を遮り、ヒューベルトが言った。
その声は微妙に、いつもより早口だ。
気付いたライラは苦笑しつつも、ヒューベルトに同意する様に言った。
「そうね、早い方が良いかも。2人とも、ついて来てくれる?」
ライラの言葉に頷いたシキとアルトナは、連れ立って歩き始める。
先行するのはヒューベルト。
その少し後を、シキとアルトナが、ライラと横並びになって進む。
「向こうでの調子はどう?」
歩きながら、ライラが声をかけて来る。
「忙しい所を来てくれて、ありがとう」
シキとアルトナとお喋りが出来るのが嬉しいというように、言葉を交わしていく。
「ごはんは、ちゃんと食べてる? ちゃんと栄養のある物食べなきゃダメよ」
「大丈夫です、母様。食事は体づくりの基本ですから」
胸を張るように応えるシキ。
それを、ため息をつくようにして見詰めるアルトナ。
ここに来る前日、シキに引っ張られてスイーツ巡りをしていたアルトナとしては、ここでツッコミを入れるべきかどうかを、ちょっと悩む。
(……まぁ、あれはあれで、悪くなかったが)
甘党のアルトナとしては、シキに連れていかれたとはいえ、それなりに楽しんだのも事実。
(さて、どうしたものか)
そんなことを思いながら進んでいると、目的地に辿り着いた。
「ここだ」
言葉短く言い切ったヒューベルトに、シキとアルトナは周囲を見渡す。
ファイネン家から、それほど遠くないそこは、雪が積もった平地だった。
少し先には森の入り口があるので、切り開いた土地を整地した場所なのだろう。
本来なら、平坦な場所である筈だ。しかし今、そこは――
「随分と荒らされてるな」
ぽつりと、アルトナは呟く。
アルトナの言う通り、周囲は至る所が荒らされていた。
そんな場所の1区画を指さしながらライラが言った。
「あの辺りにね、お花の種を植えようと思うの」
ライラの指差した場所を見詰めたアルトナは、訝しげに言った。
「……なんだ? あの穴ぼこ……」
「ベリアルが荒らしたことで、ああなってしまったの」
眉を下げながら応えるライラに、アルトナとシキは表情を引き締めた。
そんな2人に、ライラは希望を口にする。
「今の内に種を植えておけば、春には芽を出すから。でも、植えたあとに荒らされたらダメでしょう? 他の場所に植えても、同じことになりそうだし」
「他の場所もということは……じゃあ、あれ幾つもあるのか……」
荒らされた規模と数から、それをしたべリアルを予想する。
(あの程度の荒らし方しか出来ないなら低スケールべリアル……1か、最大でも2だな。だが1体じゃない。複数いるな)
アルトナがべリアルの戦力を予測していると、ライラが続けて言った。
「この機会に整備をと思って。王様に予算の少しを種にしていただいたの」
ライラの説明を聞いたアルトナが尋ねる。
「ベリアルは全く居なくなったわけじゃないだろ。なのに今必要なのか?」
この問い掛けに、ライラは笑顔を浮かべ応えた。
「子供たちが、この辺りは多いの。転んでしまったら大変だわ。だから整備がいるの。それに見栄えが良かったら気持ちがいいでしょう?」
「……子供が来るのか……」
少し考え込んで、アルトナは返す。
「……そういうことなら協力はするけど」
アルトナの応えに、ライラの表情は嬉しそうに華やぐ。
「さすがアルくんねっ。頼りにしてるわ」
「……はいはい」
苦笑しながら応えると、シキの傍に行く。
「やるぞ、シキ」
「もっちろん! アルくんと一緒なら何でも来いだよ!」
浮かれたように声を上げるシキに、ヒューベルトが言った。
「今日は2人には分かれて行動して貰う。シキは付いて来い」
「え……」
ヒューベルトの言葉に尻込みしそうになるシキに、アルトナは言った。
「その方が良いだろう。俺はこの辺りで動く」
「そんなー! アルくんまでー! 俺と一緒に動くの嫌なのー!?」
泣き言を言いながら縋りついてくるシキに、アルトナは返す。
「違う。全員で行ったらライラは誰が守るんだ。俺はここで護衛に就く。それにこの辺りはシキの家に近いんだ。土地勘はそちらがあるから、シキ達が動いた方が良い」
「ぅ……それは、そうなんだけど……」
正論を言われた所に――
「先に行く。連いて来い」
問答無用で出発したヒューベルトに、もはやシキに退路は無い。
「分かった。じゃ、行ってくるよ。母様を頼むね、アルくん」
「ああ。任せろ」
そう言うと2人は、魔術真名を詠唱。
「共に」
封印されていた力を解放し、アルトナにライラを任せ、シキはヒューベルトの元に走る。
追い付いた先は、森の入り口。
ヒューベルトは森の奥を見詰めたまま、シキに言った。
「この辺りにも低スケールのベリアルが前ほどではないが存在している」
その言葉を証明する様に、風に乗って獣の遠吠えのような鳴き声が聞こえてくる。
「ツェーザルの子供が居なくても一人で戦ってみせろ、シキ」
そう言って先行して前に出るヒューベルトの後を付いていきながら、シキは思う。
(父様は俺にどうしてほしいんだろ)
それは疑問。
(メイナードや跡取りのエリーみたいに長男や次男なわけじゃないのに)
理由は思いついてくれない。けれど――
「やるしかない、か」
戦士へと意識を切り替えながらシキは、もう1人の相棒に呼び掛ける。
「……頼むぜ、テンちゃん」
呼び掛けに応えるように、テンペストが鳴動する。
共に戦おう。
まるでそう言っているかのような反応に、シキは苦笑する。
そして、余計な力みを消した絶妙な脱力で、獲物を狙う。
(まだだ。今じゃない)
テンペストを構えながら、意識を透明にしていく。
獲物であるべリアルの姿は、まだ捉えきれない。
けれど唸り声は確実に響き、殺意を向けて来る。
獲物であるべリアルは恐らくスケール2。
明確な知恵は無いが、獣の狡猾さで襲撃のタイミングを計っている。
静かな対峙。
下手に動けば隙を突かれかねない。
そこで先に動いたのはシキだった。
唸り声の先へ放たれる一撃。
しかしそれはべリアルの姿を捕えることも出来ない。
その瞬間、べリアルは攻勢に出た。
攻撃した次の瞬間の、僅かな心の隙。
それを突くように跳び出し――シキは万全の態勢で迎え撃った。
「星の導く先。護る」
解号と共に黒炎解放。
そして必殺の一撃に特殊能力を込め放つ。
先の一撃は、誘導。
2撃目こそが本命。
狡猾な獲物を狩り獲る狩人(シキ)の一撃は、べリアルの頭部に命中。
一撃のもと、打ち倒した。
(……やった)
倒してから、不安を吐き出す。
いつもは誘導ばかりで、止めはアルトナに任せていたので、巧く行くのか心配だったのだ。そこに――
「シキ」
ヒューベルトが声をかけた。
「お前はやればできる男だ。それを忘れるな」
「ぇ……父様、それって――」
シキの言葉にそれ以上返すことなく、ヒューベルトは更にベリアルを撃つべく先に進む。
それをシキは慌てて追いかけ、へとへとになるまで、べリアルを父と共に倒していく。
全てが終わったその後はライラの手料理にもてなされ、ファイネン家で一晩泊まって帰る、シキとアルトナだった。
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